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確固とした「第三者」になるために

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2012年 6月12日(火)14時09分31秒
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  米本和広様

掲示板に書き込みいただき、誠に有難うございます。また、米本さんから先に謝意を示されたことに、大変恐縮しております。カルト問題を扱った米本さんの著作、特に『洗脳の楽園』と『我らの不快な隣人』からは、とても多くのことを教えられました。大学での講義でも、折に触れ、これらの著作を推薦させていただいております。

私も、自著の『オウム真理教の精神史』を切っ掛けに、現代カルトをめぐる問題に足を踏み入れたことになりますが、今でも完全に考えが固まったというわけではありません。「カルト」という概念は多分に価値判断や偏向性を伴っており、研究者としてはこれを放棄するべきだろうかという思いが、時折頭をよぎることがあります。

しかしながら、研究者が「カルト」という概念を放棄することによって、何か物事が前進するのだろうかと考えれば、決してそうは思えません。特定のカリスマや生き神を中心に閉鎖的なコミュニティが形成され、そういった集団が外部の社会に対して激しい排他性や攻撃性を示すといった現象は、現代において頻繁に見られるものであり、研究者はこうした社会的病理に対して目を背けることがあってはならない、と考えるからです。

現在の社会のなかに「カルト」が存在していることを認識すること、そして場合によっては、こうした団体の動きに反対し抵抗することは、とても重要です。しかし他方、米本さんが明らかにされてきたように、「カルト」に対する「反カルト」の動きがいたずらに先鋭化されると、両者は奇妙にも相互に似通ってきてしまうということがあります。カルトの人間は「マインド・コントロール」されているのだから発言の機会を与えるな、問答無用で拉致監禁せよ、ということが罷(まか)り通ってしまえば、その排他性・攻撃性は、もはやカルトと同種のものにしか思われないからです。

「カルト」対「反カルト」のケースに限らず、問題が「敵か味方か」という二項対立に局限化されてしまうと、両者は激しく対立しているにもかかわらず双子のように似てきてしまうというのは、これまでの人文系の諸理論において幾度も指摘されてきたことです。そしてこの場合に重要なのは、敵か味方か、善か悪か、という二元論に回収されることのない「第三極」を立てることだと考えます。最終的には、その役割は司法の人間が引き受けることになりますが、現代の宗教をめぐる問題はまったく見通しが利かないほど入り組んでおり、司法が本当に客観的な立場を取りうるのか、危ぶまれる点も少なくありません。ですので私は、研究者が理論的立場に徹し、現代の宗教問題の根源には何があるのか、この問題はなぜかくも入り組んでしまうのかということを、可能な限り客観的に説明することに努めるべきであると考えています。

しかしながら、米本さんもよくご存じのように、これまでの宗教学者は、「第三者に徹しなければならない」という自覚を十分に持っていなかったのではないかと思います。「カルト」と「反カルト」双方の顔色を窺っては、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、足腰の定まらないコウモリのような振る舞いを繰り返してきたのではないでしょうか。また、第三者に徹するという私の方針に対しても、「現場を知らない書斎の研究者が分かったような口を利くな!」という批判が浴びせられることが予想されます。これに対して私は、その批判をいったん受け入れた上で、しかし、現場で見えるものだけがすべてではない、現場にいないからこそ見えるものもあるのだということを、粘り強く主張し続けたいと思っています。

やや長めのご返答になってしまいました。米本さんの著作によって、カルト問題を考察するための新たな視点を与えられたことに、あらためて感謝を申し上げます。また今後は、米本さんと、私を含めた宗教学者のあいだに、生産的な対話が成り立つことを強く期待しております。
 
 
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