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明けましておめでとうございます

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2012年 1月 5日(木)15時13分55秒
  明けましておめでとうございます。新年早々、平田信容疑者の出頭という出来事があり、まだまだオウム事件は終わっていないということを印象づける年明けになりましたね。

高橋英利さん、返答が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。年末年始のドタバタも一通り過ぎ去り、通常の生活リズムが戻ってきましたので、徐々に私からもリプライさせていただきたいと思います。とはいえ、高橋さんからの書き込みが沢山溜まってしまいましたので、まずは簡単に答えられる範囲で。

■リルケの詩、エニアグラムについて
リルケの「鏡像」という詩は、美しいですが、かなり難解ですね。詩を読み慣れていない私には十分に理解することはできませんが、確かにグノーシス主義の鏡像論と似たモチーフを感じます。自己同一性をもたらすとともに、他者によって収奪されてゆく、鏡像の両義性を指摘しているという点で。

グルジェフのエニアグラムについては、鈴木秀子さんの『9つの性格』くらいしか手元に参考文献がなく、これも私には十分に理解することができません。何かお薦めの文献がありましたら、教えていただけますでしょうか。

鈴木秀子さんの本をパラパラと読み返した限りでは、グルジェフのエニアグラムは、ユングの唱えていたタイプ論やペルソナ論と似たところがあると感じました。フロイトも含むさまざまな深層心理学は、これまで多くの誤謬を犯してしまったため、慎重な研究者には敬遠されているところがありますが、過去の失敗を真摯に反省し、再び理論を適切に整理すれば、私にはまだまだそこから汲むべき事柄があるように思えます。

さまざまなタイプに分類される「自我意識」を脱却すれば、その奥に「本当に自分」が潜んでいるというユングやグルジェフの「真我論」は、私にはとても許容できないものですが、人間が他者の欲望を引きつけるため、あるいは社会と折り合ってゆくために種々の「ペルソナ」をまとい、複数の自我意識を持っているという考え方は、とても面白いと思います。例えば、岡野憲一郎さんの『心のマルチ・ネットワーク 脳と心の多重理論』では、人間の意識にはもともと複数の人格が宿っており、それらのあいだの絶えざる「内なる対話」によって意志決定が為されているという理論が提示されており、私は興味深く読みました。こういった理論を発展させてゆけば、これまで「神秘経験」や「宗教経験」と呼ばれてきたものが、より詳細に分析できるのかもしれません。それによって麻原のパーソナリティが分析できるのかは微妙ですが・・・。

■ゾロアスター教の二元論について
「ラーフラ」氏に関する興味深いエピソードを教えていただき、有難うございます。お会いした際にお話ししたとおり、私自身はオウムの二元論は、ゾロアスター教的と言うより、ロマン主義的で原理主義的なものではないかと考えています。古代思想を扱う上で重要な点は、近代の「色眼鏡」を通してそれを解釈するのではなく、その思想が当時の歴史的背景においてどのような仕方で存在していたのかを、冷静に考察することです。ゾロアスター教について考える場合でも、まずは『アヴェスター』という文献を正確に読み解くところから始めなければならないと思います(私はゾロアスター教の文献をまったく読んだことがないため、まだ何とも言えないのですが)。ゾロアスター教にせよグノーシス主義にせよ、古代の文献を自分で読んでみると、得てして、さまざまな研究書で語られているものとはかなり違うという印象を受けるものです。

ユングも繰り返し主張していることですが、近代のロマン主義においては、精神の深層に到達するためには人はいったん「悪」の領域を通過しなければならないという理屈から、「悪の存在の肯定性」が語られるようになりました。こうした善悪論は、私の知る限り、古代思想にはまったく存在しないものです。麻原が自分を「悪魔」である可能性について語ったという事柄に対しても、私にはそれは、とても近代的な言説であるように感じられます。

■グノーシス主義における惑星天の扱いについて
>この7つの惑星天の神々というのは、現在週の呼び名になっている、土日月火水木金を
>表すのだろうけれども、本来の惑わす星=惑星に該当するのは、土星、火星、水星、金
>星、木星の5つだけであり、月と太陽の天に表現されている様を見れば一目瞭然ですが、
>惑わす星と認識されるのは、考えにくいです…

うーん、なるほど。確かに近代の天体論で言えば、太陽は恒星、月は衛星であり、惑星ではないですね・・・。私はこの点に関心が薄く、あまり配慮していませんでした。占星術に詳しい高橋さんの方が、よくご存じの事柄かもしれません。

実は「グノーシス主義」の文献のあいだでも、その宇宙像は細かな点で相互に食い違っています。しかし全体として言えば、古代末期の宇宙論においては、宇宙を「恒星天」「惑星天」「月下界」に三分するのが通例であり、グノーシス主義も大枠でそれに倣っていると考えることができます。例えば、グノーシス主義とも関係が深い中期プラトン主義者アルキノスの『プラトン哲学要綱』というテキストでは、次のような記述があります。

「さて、惑星天内には七つの天球が存在するので、神は素材の大部分を火から取りながら、目に見える七つの天体を創造して、「別のもの」の彷徨える軌道から成る(七つの)天球に配置した。月を神は地上から見て最初の軌道に置いた。太陽は二番目の軌道に置き、金星およびヘルメスの聖なる星と呼ばれる惑星(=水星)は、速度の点では太陽と同じだが、太陽からは離れている軌道に配置した。さらにその上方のそれぞれ固有の天球には他の惑星を置いた。それらの内でもっとも動きが遅い惑星すなわち、人々がクロノスと呼ぶ星(=土星)は、恒星天のすぐ下に横たわる天球に置き、その下には、動きの遅さでそれに次ぐもの、すなわち、ゼウスとあだ名される惑星(=木星)、さらにその下にはアレスの惑星(=火星)を置いた。第八の天球には至上の大能があって、すべてのものを包み込んでいる。」(大貫隆『グノーシス考』三〇五~三〇六頁の翻訳)

このように、古代末期の宇宙論では、太陽や月は「惑星天」に属すると考えられていたようなのです。しかし、現代的な観点からすればそれは、「七曜天」とでも称するべきなのかもしれないですね。
 
 

『グノーシス主義における星辰の神々の扱い』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2012年 1月 2日(月)20時26分32秒
  大田さん

新年明けましておめでとうございます。

『ポイマンドレース』の項で、惑星天の関与、役割が触れられていますね…
興味深い内容でした。

【引用はじめ】
『変身物語』で自分自身に見惚れるナルキッソスの姿を精霊のエコーがそのそばで密かに見つめていたように、『ポイマンドレース』においても、水面に映った自分自身に見惚れる人間を、その他の存在者が密かに見つめている。それは惑星天の神々である七人の「支配者」たちであり、さらには、人間の姿を映し出している「フェシス」そのものである。これらの星辰の神々と「自然」は、自らの持つ性愛的性質を少しずつ人間に分け与え、彼を愛欲の渦の中へと沈み込ませてしまう。
p86 『グノーシス主義の思想』

グノーシス主義が持つ最大の特徴とは、それまで連綿と続いてきた「古代宇宙論」の否定、特に星辰崇拝に対する根源的な否定である…そうである。
p87 『グノーシス主義の思想』

星辰崇拝が当時のローマ帝国において、皇帝崇拝という政治的イデオロギーと密接に結びついていた事実を踏まえて、それはひとつの「挑戦」であった…という。
p88 『グノーシス主義の思想』
【引用終わり】

僕はこれは大胆なことだなと感じました。(神話や思想はそれ自体旧来の思想体系を乗り越えるものだとしても。)

この7つの惑星天の神々というのは、現在週の呼び名になっている、土日月火水木金を表すのだろうけれども、本来の惑わす星=惑星に該当するのは、土星、火星、水星、金星、木星の5つだけであり、月と太陽の天に表現されている様を見れば一目瞭然ですが、惑わす星と認識されるのは、考えにくいです…

つまり、7つすべての星辰の神々が一様に「格下げ」される思想には、無理があり、たとえ、そうであったとしても、それに異を唱えるものが後に出てきて当然であり、その過程で熟成され、吟味されてゆくことを考えると、太陽と月の役割までも、一緒になって悪しき存在とされてゆくのは、いささか星辰の神々にとって、「冤罪」に近い印象を与えていると思います。

その思想変遷がどのようなものだったのでしょうか…

たとえ、当時の「古代宇宙論」への否定的原動力としてグノーシス主義の本質が生じたとしても、この違和感はぬぐいきれない感覚として、残ります。

惑星は、天に位置する座標を、周囲の「恒星」たちとは違い、刻々と変動させ、時に「逆行」現象をおこしながら進むために、観測する古代人にとりわけ注目され、不可思議なものと映った事は容易に想像できます。そして、それ自体を畏れ、それはプラスに働けば、畏怖を持って神とされ、逆にマイナスと捉えられれば、自分達を騙すものとして、悪魔化されるのも、容易にイメージできます。

では、太陽は?というと恒星であり、昼を作りだしており、月や他の惑星達を照らしている。太陽神は別格のはず…。

月は月で、たしかに「自ずから輝けない」という点で惑星達と同じく、劣っているけれども、「みちかけ」があり、正確なリズムが生態系と連動されていることは、当時の古代人達にも周知の事実であったはず。つまり月の観測が恩恵をもたらす事はあっても、魔の存在として取り上げられるほど不利益な存在として捉えられていたとは思いにくい…。(※日食や月食は別にして)

だとすると、ますます、7つの星辰の神々を一纏めにして、引きづり降ろす思想が神話化されるのには、もっと別の観点が必要になってくるはずです。そこが謎として残ります。

で、太陽すら越える存在を見つめての神話体系なのだと、言えるでしょうか。
 

『イエス・キリストの本当の誕生日はいつかを探求する』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月27日(火)09時51分18秒
  大田さん
どうも、こんにちは。
今日の話題は、ちょっと余興的なものなので、軽く捉えてください…

キリスト生誕に関しては、一般にベツレヘムの星と呼ばれるものをルーツとして、東方の(おそらくバビロンの)占星術師達が訪れる物語で紹介されています。

内容的には、ウィキペディアからの引用ですが、以下のようなものになります。。。

◆概要
キリストがベツレヘムで誕生した直後、東の国で誰も見たことがない星が西の空に見えた。3人の占星術の博士、すなわちカスパール・メルヒオール(メルキオールとも)・バルタザールらは、聖なる人が生まれた事を知り、その星に向かって旅を始めた。

◆新約聖書では、どう記述されているのか?
マタイによる福音書では、3博士がエルサレムのヘロデ王の庭に到着し、ユダヤ人たちの王が生まれた印の星について述べた場面は次のようである。

ヘロデ王の代、イエスがユダヤのベツレヘムで生まれた時、見よ、東から来た3人の博士がエルサレムに到着して言った、「ユダヤの王として生まれたお方はどこにおいでですか。我々は東方でその星を見たので、そのお方を礼拝しに来ました」。ヘロデ王はこれを聞いて不安になり、エルサレムの人々も同じであった。そこで彼は祭司長らと律法学者らをすべて集め、キリストはどこで生まれるのかと問うた。

イエスの降誕を知らせた星の正体が何であったのかについては様々な説があり、特定はされていない。現代においては、天文学者らはこの星について様々な見解を持っている。超新星、惑星、彗星、惑星どうしの接近や会合などありとあらゆる事例が提唱されているが、この話の歴史的な正確さに疑問を持ち、この星はマタイによる福音書の筆者によって作られたフィクションではないかと考える学者も少なくない。

◆天文学的なリサーチ

1614年、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは、紀元前7年に起きた、木星と土星の3連会合、すなわち両惑星が合体して見えるほどの接近を3回繰り返したのがベツレヘムの星の正体であると結論付けている[8]。当時、木星と土星は接近しつつ留と逆行を繰り返し、3回も大接近した。

彼の計算では、紀元前7年11月12日午後6時から9時半にかけての、エルサレムの南の夜空。

いろいろ説があるけれども、僕もケプラーに習い、木星と土星の合を採用して計算すると

僕の計算では、紀元前7年10月1日
となりました。割と近い値がでました。3回の接近日があるので、この説で行けば、どれかだと想っています。

紀元前7年説、学説的にはどうですか?
 

『ミトラの生誕祝』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月25日(日)12時23分50秒
編集済
  大田さん、メリー・クリスマス。
ちょうどクリスマスなので、お話してみたかった「ミトラ」の話題に移りましょう…

といっても、内容的に副題をつけるならば、
~麻原思想にはザラスシュトラの二元論の影響がある~
になります。

キリスト教の全世界的な布教と、この聖誕祭に隠された意味は、これほど有名なお祭りであるにも関わらず、その真相を知らない人が世の中に大勢います。

12月25日は、正式にはイエス・キリストによる生誕の日ではなく、むしろ、ミトラ教の神ミトラの生誕祭だったものです。
これは当時のローマ帝国に支配的だったミトラの信仰を、後に入ってきたキリスト教の信仰者達が、その布教の一環で、彼らの信奉するキリストがミトラと同じ日に生まれた…といったほうが、当時支配的だったミトラ信者を、そっくりそのままキリスト教徒に変換させるのがたやすかったためでしょう。

僕は、はじめてこの事実を知ったときは愕然としましたし、それはミトラへの関心も高く、同時に占星術師としては、イエス・キリストの本当の誕生日を調べるきっかけにもなりました。(僕は、コンピュータを使って、実はイエスの真に生誕した日だと想われる日を算出してもいます…もちろん、源流となる情報は聖書にしかないので、3人のマギの礼拝の頃の天空の座標を使い、逆算して日にちを求めるというものですが…興味深い結果が出ましたよ…)

ミトラに関心を寄せるきっかけは、僕の場合、仏教に伝来する弥勒(マイトレーヤ)の伝説からでしたが、この話を追いかけていくうちに、どうしてもゾロアスター教が出てきて、かつ、あのオウムの教義というよりも、教祖の思想の根幹に、ザラスシュトラがいることに気がついたからです。

お会いしたときにお話しましたが、あまり先生は、その影響力を重要視されてはおらず、「まあ、オウムはごった煮だったから、なくはないだろうけど、それほどの影響があったのか?」といった顔をされていました。

僕は、再度唱えておきたいのは、オウムは仏教やキリスト教よりもゾロアスター教の影響のほうが…大きいです。

そう発言するほどの根拠となるものはおいおいお話させていただきたいと想っていますが、仏教もキリスト教も利用していたとは言えますが、ヴァジラヤーナに行き着く発想と、その比重の高さを検討すれば、自ずと教祖の思想的背景が読み取れます。

いくつか当時の彼の説法を取り出せば、指摘できるところがたくさん出てきます…今手元にないのが残念ですが、あれば探しておきます。

ゾロアスター教は当時のイランにおいて、地域的な差からマズター教とミトラ教に別れていた宗派を総称したものだと言われますが、このことからも解るとおり、最初はアフラ・マズターによる一神教ではないんですよね…むしろ神々が並列状態だった。
その中で人気の高いアフラ・マズターとミスラ(ミトラの前身)がいて、共に崇拝されていましたが、当時の西欧の進化論的宗教観に次第に汚染されていって、次第に「唯一最高神アフラ・マズターを崇拝する宗教だった」という解釈が起こるようですが、これは間違いと言っていいくらいのものですね。

やはり、重要なのは、ザラスシュトラの二元論だと思います。
ギリシャ哲学によるものとも違い、インドのサンキャ哲学とも違い、もちろんデカルト的物心二元論とも違うもので、異質なものとされています。

善なる神(あるいは天使)と悪なる神(あるいは天使)の戦い…
この抗争が描かれていて、神話学的には、それを追いかけていけばいいのでしょうが、注目すべき点があります。

神話学的な解釈で、「かつて、善なる神と悪なる神の戦いがあった」という表現をを伝えるものとしてではなく、
「善と悪の対立的抗争が必要だったのだ」…とする考え方が、どうやらザラスシュトラにあったらしいという、僕は想っているからです。

正直、善と悪のカテゴリに大別されて、唱えられるのは、苦でした。
僕がオウムをやっていた頃の、教団の主義主張で一番理解に苦しみ強く反発したのは、仏教思想の代入思想ではなく、この善悪二元論だったのです。

これは、当時、僕と麻原の対話があり、それはたまたま教団のテープに残されていたため、それはTV放映されています。
著作にも書いたことですが、僕は教祖に圧倒する形で、説教され、「闘いが必要なんだ…エネルギーの激しいぶつかり合いそのものが必要な時代なのだ」と説教されています。

これは、後に分析してみて明らかになったことですが、ひとつの謎も解けるのです。
強引で、誤解を招きかけない行動の多い教祖に、批判的に詰め寄る信者時代の僕の発言に対して、実は教祖は、そもそも環境を争いの渦に落としたかったのだ…いや、むしろ、そのことこそが目的といっていいほどの、重要性と捉えていたらしいのです。

それが証拠に、ラーフラという一番弟子がいて、僕のいたころは脱会していたのですが、彼が、教団ポアリストトップの人物でした。僕は脱会後、非常に際どい橋を渡りながらですが、ラーフラと面会することができました…彼は僕のTVの訴えを聴いてくれたのです。

そして、こう言われました。
ラーフラ:ロシアで軍事訓練を受けているとき、いや、その前に、教祖にワークを命ぜられる前に呼び出されて問いただされたんだ。
僕:なんていわれたの?
教祖:なあ、ラーフラ、もし私が神ではなく悪魔の側だったとしても、おまえは私についてきてくれるのか?
ラーフラ:…

この強烈なやり取りを聴かされ、僕は、当時心底のけぞりました。
教祖は気づいていたんだ…自分が危険な人間であることに「自覚的」
しかもそれをだしにしながら、弟子の帰依を試そうとする…あざとさ。

この会合は、警察や公安も絡んだものだったので、非常に貴重でデリケートな体験だったけれども、この話によって、
僕達には決して見せない姿が、教祖にはある…という確信に自信を深めたんだ。

教祖にとって、善と悪は必要で、あわよくば「善なる神」として君臨しようと教団を創ったことは容易に想像がつくんだけれども、
普通「悪」とはされたくないであろう彼は、どの程度、「善」にこだわっていたのだろうか…?

まったくと言っていいほど、善などにこだわっていない。
そのことは、事件が見事に証明してくれている。
いや、むしろ「悪」として世の中に機能してさえ構わない…と高をくくっていたのではないだろうか…

彼の関心で最も重要なことは「ことを起すこと…」だった。
リフトンさんと共鳴した「発見」がここでした。

また、論を補強する情報源として紹介しますが、あるときの説法の抜粋をして、彼の根幹思想を見出すことができます…

【92年12月頃の松本支部道場説法の内容抜粋】
「…信者である君達は、素材だ、そして、オウム弾圧、これは圧力だ。そしてグルである私の役目は何かと。それは触媒に過ぎないと。で、何が必要になるのかと?それはすなわち、高い圧力化で変化するための化学反応だ。この今の日本の警察による弾圧、大いに結構だと私は想っている。」

そして、強制捜査時点で、道場で流れていた説法は、この前お会いしたときに紹介させていただきましたが、
「まさに、グリフォンとアフラ・マズターの戦いである…」
でした。

僕は、もうその後は「神」と聴くと「悪魔」ではないかと疑うようにすらなってきています…
あるものにとって神は、別のものにとって悪に見えるからです。

そして、キリスト教にも受け継がれてしまっている、この善と悪の考え方は、ゾロアスター教がルーツだと感じています。

そして、ミトラ=救済者 というイメージで、うまく纏め上げて、まい進したのがオウムであり、その中でマイトレーヤの物語はうまく利用されていたのだと想っています。

でも、これは前例として、ミトラ=キリストとして、ローマ帝国がキリスト教を迎えたことににています。
 

『ロバート・J・リフトンさんの研究成果について』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月20日(火)20時58分45秒
編集済
  宗教学の「批判的態度」は冷静で、社会学の社会現象への「反省」も必要であると感じており、これらの学問価値のある学問であることを僕は認めているし、興味を抱きながら、本質的な「戸惑い」も感じている。
批判し反省できるという「理想」は素晴らしく…それを目指すべき方向だと<期待>しながら、改めて、地球史的な痕跡を観察してみたいのだ。
分野は宗教学でも社会学でもないのかもしれない…彼の研究範囲は多層的で、極めて優秀かつ斬新な研究者だ。
尊敬している…
ロバート・J・リフトンさんの『終末と救済の幻想』本を再度読み直し、悲観的な気分に陥る…
これは自分の性格にもよるが、厭世的な気分に深く落ち込んでいた。しばらくは頭痛と吐き気すら併発した。
「黙示録的終末観」のテーマについてが主軸になっている。
その危険性が多角的に検証されている。オウムは駒を1歩進めてしまったことになる。

その事への憂慮と深い沈鬱な気分を味わいながら、では、その出口や「明るく」「希望の持てる」「過ちの発見と反省からの脱却」的なものはどこに見出せるのかを見つけ出そうとしながら読んだ。

先生ももちろんお読みになっていることと想う。
どこにあったのだろうか・・・?
僕は何か見落としているだろうか…

どこらへんを読むと、この悪夢からの脱却への道やわずかでもいい可能性が見出せるのだろうか…
リフトンさんがかろうじて「絶望」していなかったとしても、この書物のトーンは重く、解決策として華々しく提示された思想が発見されたりすることは…期待するほうが間違っていた…と言われればそうだが、極めて残念なことではある。

しかし、原点に戻ろう。
「黙示録的終末観が危険な思想だ」と行き着いたとして、では
・「終末がくるなんておかしい」
・「そんなこと気にするほうがおかしい」
という論理に帰着して、胸をなでおろすことが「求められて」いるのだろうか?

■「終末」という「現象」は「起こっていた」のではないだろうか?
しかも何度も何度も…

終末と言うのは、宗教思想的にただ煽られて大きくクローズアップされただけだろうか?
その根は、「真実の現象」として地球に刻み込まれていたからこそ、発生したのではないか?
というのが、むしろ科学的アプローチによる見解だと想う。(決してオカルトでもニューサイエンスでもない。)

志している「健全な」思想は、「終末観」に影響されぬこと…
その意志を持つことを奨励しているように想う。僕は自身の体験を踏まえ反省し、賛同した態度で読み進めた。
それは一見平安で、理性を獲得した人の「正常」な思考だという主張はわかるのだ…

わかるのだが、もう少し現実を観察してみると、それも数千年なんていう「短い区間」ではなく、もっと永い痕跡を観察してみると、僕らの住まう世界のドラマは、決して穏やかではなく、人間中心に考える傲慢さを捨て去ったならば、惑星のクレータの数だけ、危機は訪れていたのであり、ただ単に地球と言う惑星が水の惑星であるが故に、大半のクレータが隠され、消されてしまっているのに他ならず、その数は、位置的に火星だろうと金星だろうと(つまり、その間の地球は)、月に刻まれているクレータの数だけ、終末が起こったのだ。

「真実は?」という問いに対し、科学的アプローチは賞賛され、オカルト的アプローチは、一笑にふされてきたように想うし、今でも、そしてこれからも一般にはそうなのだろう。そこでオカルト抜きにして「科学的アプローチ」で「終末」を調査してみる。
しかし、「真実は?」という問いに、最初から期待を込めて希望的観測をする視点も、悲観的観測をする視点も、傾向としてありがちだが、どちらも結局振り子のように揺れながら、いつの時代も行過ぎている。

ここで宗教的な終末観など持ち出さずに、
神話なども持ち出さずに、
地質学的なドライな視点で「終末」を調査すると、以下がこれまでに判明している。

●主な地球での大量絶滅

・オルドビス紀末
約4億3500万年前の大量絶滅。当時生息していた全ての生物種の85%が絶滅したと考えられている
・デボン紀末
約3億6000万年前に、多くの海生生物が絶滅。全ての生物種の82%が絶滅したと考えられている。
・ペルム紀末
約2億5千万年前に起きたとされる「地球の歴史上最大の大量絶滅」。海生生物のうち最大96%、全ての生物種で見ても90%から95%が絶滅した。
・三畳紀末
約2億1200万年前の大量絶滅。全ての生物種の76%が絶滅したと考えられている。
・白亜期末
約6550万年前の大量絶滅。恐竜が絶滅。他に、翼竜、首長竜やアンモナイトが完全に絶滅。全ての生物種の70%が絶滅したと考えられている。

そこでこの「終末の期間」が「わずか 20万年の間に地球の大地と海洋からほとんどの生き物を消し去った」ことが中国、米国、カナダの地層研究者達によって、最近明らかにされた。

【参考】
http://oka-jp.seesaa.net/article/240105713.html


このような時期に、それを目撃した知性体がいたとしたら、体験したとしたら、神話が書かれている内容に、「だって神話だから…」という「科学的でないという蔑視を込めた」つぶやきは、むしろ、はなはだ論理性を欠く代物だと言えると想う。

悲観的かもしれないが、僕は、リフトンさんに、こう想われていたのではないかと想う。。。
危険な熱情的な終末思想を抱いたオカルト青年だと…

あの人と、あの人の業績を最大限賛美しながら、その「理不尽な批判」を半ば諦めて受け止めながら…
僕は、このように彼に溜息をもらしたい。
神話や宗教やカルトや群集心理的な考察で、多大な功績があるけれども、天文現象的にみて、圧倒的に確率の高い天体衝突や不可欠とも言える地殻変動への史実的な考察が、全く足りていない。

僕は、地質学と、天文学を修めているからかもしれないが、この学問を修めれば修めるほど、
危険といつも隣り合わせて存在している地球と人類の事をひどく憂慮するようになるのだ。ただのロマンではなく。
だからこそ、黙示録でなくとも終末観には敏感にならざるをえなかった。。。
それは、間違った<精神的態度>だと…間違った<観察>だと
彼は、僕にそういいたいのだろうか…

僕がリフトンさんにいいたいのは、
それでもまだ…観察が足りていない。惑星の事象を決定的に見落としている。

こうした「地質年代的な終末の痕跡」が人類の精神に刻まれた結果、終末観が生じるのは言わば「必至」であり、避けられることではなかったのだ…というのが、学問的な答えではないだろうか?

ということになる。
神話はあながち「神話的」とも言えず、意外と「科学的」な香りも漂っている。


わずか数日前だが、太陽に最も接近した彗星がある。
http://swnews.jp/2011/fig/1112190945_exfig_1.gif
 

『鏡像~リルケ~エニアグラム~イメージという不可欠な食物について~』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月18日(日)12時31分17秒
編集済
  大田さん

お忙しいところ、恐れ入ります。
思考はしばらく溢れてきており、それを掬い取ることがやっとであり、また提示する場も僕にはないのです。

この種の視点において、話し相手が、僕には存在しないのです…

----
「鏡像」リルケ~続き~


くりかえし鏡の中から取り出して
お前はお前に新しく自分を付け加える
まるで花瓶の中でのように お前の中で
自分の似姿を整えながら それにお前と呼びかける

その花咲いたお前の様々な鏡像に。
お前はしばらくそっとその似姿に気を配っているが
やがてその幸福に圧倒されながら
それをまたお前の身体に取り戻す


ああ 彼女と それから彼女の鏡像に
それを守る箱の中に入っている宝石のように
おだやかなもののなかに置かれて 彼女達のなかで存在し続けている彼女の鏡像に
愛する男は寄りかかっている 代わる代わる

彼女とそれから彼女のなかのこの宝石を感じながら…
うちに自分の姿を閉じ込めて持っていない彼
その彼の深い内部からは溢れ出でているのだ
意識された世界と孤独とが

----
ここに登場している儚くも可憐な女性は、原初のエヴァなのか、それともソフィアなのか…?
そしてどちらにせよ、それは我々人類の根幹をなす「自己認識」の「摂理」そのものを見事に表してはいないだろうか?

人は、対象にまで「認知」されないと、あやふやで自分を含めて「愛することが不可能」なのだ。。。
これは「自己愛」という結末としてではなく、むしろ反対方向の、「出発点」としての「鏡」の作用と言えるだろう。

例えば、性格分析エニアグラムT7の人々が、かくも多趣味に意識を広げる様は、その能力の可能性を確認したかったからではない。
彼らは無自覚にも、「自己の領域」を確認したかったからだろう。彼らの原初の根幹のトラウマは、「愛する母親に振り向いてもらえなかった」からだ。彼らが一般に陽気で楽観主義だと言われる原因は、エニアグラムではそこまで解析されていないが…

「陽気」でいないと「つぶれそうだ」からであり、
自分以外の他者…それは兄だったり、弟だったり、姉だったり妹だったりする…に母親が意識を集中するあまり、それをなんとか振り向かせようとしているけなげな「気持ち」からなんだ。。。

時に父親であることさえあるが、その場合、その母親は、「子供など本来愛しておらず、自分のパートナーのこと」だけしかみていないのだ。

その意味で、「自己と世界の境界線が不明瞭であるという」その恐怖に付きまとわれるT4は、同じく自己認識で成長の過程で必要になる母親の愛を得ることに失敗してしまったT7と同調する部分があり、行動原理として反対に振舞うとしても、本質において共感していることが多い。(T7は友達がたくさんいてクラスで陽気で人気者、T4は影にひっそりと暗くじめつきながら、他者を眼光するどく観察している。)

暗くじめついたT4を、本来であれば「忌み嫌う」はずのT7が必ずと言っていいほどT4の友人にはいる。
T4はT7に確かに救われている…彼らの無邪気な微笑の中に、自分の痛みを和らげるからだ。
不可欠と言っていいくらいだ。。。

しかし、T7にとっては、むしろT4は脅威なのだ。決して自分では近づこうとしない、魔の洞窟に分け入り、帰ってきたのだから…
その点において、おそらくT7は、T4のその呆れた冒険心に関心を寄せながら、その<自分では見ることのできない>「魔」の様子を探ろうとするのだ。。。伝え聞きでもいい…自分の恐怖と共感するものを体験したT4を探していたのだから。

僕が占い師だと知ると、まず間違いなく、後に近寄り、こっそりと、非常にこっそりと
「・・・次に大きな地震が起こるとしたら、何処なのか私には教えて、決して馬鹿にしたりしないから…」
などと言う。普段葉人前で「占いとかやる人信じられない…きっと心が弱いんだよ」とか吹聴しながらも。

僕の経歴で地震占星術を知る人に至っては、むしろ「ものめずらしさ」や「好奇心」からそのことを聞き出そうとする。
かれらは、みな「鏡」を必要としている。
この場合、「鏡」は自己の鏡としてではなく、社会的存在としての不安を、別角度から観察してみる情報源としての「鏡」となってくる。

人は、なぜか「情報」を得ると、問題が未だ解決していなくても、安心するらしい。

だから、リルケの言うように(発展させて)「しばらくそっとその似姿に気を配っているが…やがてそれを「鏡像」のなかの他者に返すのだ」

原初の人間をアダム=男性としてみると、この詩はひどくこっけいに映る。
でも、原初の知性体をむしろソフィアと見るか、アダムそのものを男性原理と女性原理の融合した存在とみると
リルケの詩で最初に「女性」に視点を当てているのは充分に納得できる。

申し訳程度にしか出てこない「男性」だが、最後に
「うちに自分の姿を閉じ込めて持っていない彼 その彼の深い内部からは溢れ出でているのだ 意識された世界と孤独とが」
というところで、もう一つの人間の姿がちゃんとにじみ出ている。

人はイメージに溺れる。
これをロマン主義の罠と捉えることもできるかもしれない・・・

けれども、グルジェフが「食物論」で述べているように、
人は三種類の食物を有しており、「固形食物、空気」までは認識しているが「イメージを食べている」ことに気づいていいないのだ。と警鐘を鳴らしている。

そして、彼の弟子たちに、「一切のイメージを生起させずに生活を行う」修行を課し、
ほんのささいなイメージなくして、息をし続けることが不可能であることを…気づかせるのだ。

イメージというのは、陥ってしまう罠のごとく表現されることが多い。
しかし、ここで僕の考えを述べるとすれば、「イメージは酸素と同じくらい人間に必要不可欠な微細なもの」ということになる。
 

『鏡像理論』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月17日(土)20時18分59秒
  大田さんと言えば「鏡像理論」が代表作と言えるのかもしれない。それと、やはりラカンの功績が素晴らしいからだろう。
確かに著書『グノーシス主義』における「水面」に関する扱いは繊細な視点が披露されており、一読の価値があると想う。
非常に興味深いテーマなので、今後も考察していきたいテーマだが、今回は、これを違った視点から見ていきたい。

僕にとって、『鏡像』と言えば、やはりライナー・マリア・リルケの詩からそのイメージを膨らませてゆくことになる。

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「鏡像」三篇 / ライナー・マリア・リルケ


ああ ものおじした鏡像の美しい輝きよ
何処にも存続することができないので なんとそれが輝いていることだろう
それは鎮めるのだ 女達の自分自身への渇きを
彼女達にとって なんと世界が鏡の壁で張りめぐらされていることだろう

まるで私達の本質からひそかに流れ出でたものの中へ落ちていくように
私達男は、鏡の輝きの中へ落ちてゆくのに

彼女達は自分の本質をそこに見出して それを読み取っている
彼女達は二重に存在していなければならないのだ
そうすれば彼女達はまったきものになる

ああ 歩み寄るがいい 恋人よ 澄んだ鏡の前に
そうすればお前は存在するのだ
お前とお前との間に
緊張がよみがえり そのなかの名状しがたいものを
測る尺度が新しく生まれ出でる

お前の鏡像だけ、お前が増えて
なんとお前は豊かなことだろう
お前に向かってするお前の肯定が お前の髪の毛 お前の頬を
お前のために是認するのだ
そのように自分を受け取ることに満たされて
お前の眼はくるめき 見比べながら暗がってゆく

----

一篇だけを朗読してみても、彼の視点は美しい対象者に注がれながらも、彼の思推を見出すことができる。
ここで「鏡像」を覗き込む行為自体を「過ち」とみなすのはつまらないもので、勇み足。
僕は決してそんなことをしたくはない。

ただ、彼の詩に登場する主体である「彼女」は自身の「存在」の確認のために、「鏡」を使用しているのであり、
それはひとつの選択として落ち着いた行為ではなく、半ば切羽詰った「渇き」によってなされたことが指摘されている。

リルケを知らない人は彼を単なる「詩人」と解釈してしまいがちだが、彼の零された言葉にはじっくりと煮詰め上げた哲学が存在している。。。彼は思推の末に、ロゴスをそぎ落としていった形而上的な哲学者と見たほうが妥当だろう…
僕は、彼の詩に散りばめられた、選び抜かれた言葉(そう、言葉の末端である「葉」として)を注意深く読み解く必然性を常に感じる。

そしてまた、彼女達にとっての「鏡」とは、自己の存在の確認作業の他に、既に自己愛への渇望も含まれており、かつ、それが彼女達の「周囲に張りめぐらされている」点で、ただならぬ影響力を秘めていることを知る事になる。
外見の写像へのリアル感は、恐ろしいほどで、実際に女達は、自分が美しくなければならないと、幼少の頃から、半ば脅迫されて存在しているのであり、それは親や兄弟や教師の教育ではなく、本質的な「気づき」だろう。

その上で、残酷にも彼女達は、こう思うに至るのだ。
「可愛くなければ、綺麗でなければ、私は愛されず…存在しない。」とまで…

実際に、そこまで正直に口に出して告白した女性にはさすがにお目にかかってはいないが、
ほぼこの事実と同じ内容の事を僕は女性から告白されたことがある。

この女性の鏡像に対する奥底に潜んでいる喜びと苦悩に関しては、出家した女性から教わったものだ。

女性で「出家」願望があり、解脱願望を生じさせた彼らが、まず闘っていたものは、知らずに己自身の周りに張りめぐらされた、この鏡像だったと言える。それは社会的な構造でもあり、もっと原初の構造が雛形としてあったのだ。

そこから逃げ出すには、もはや、鏡を壊すか、鏡の中の自分を輝かせるのかどちらかの選択すじしかなくなっていく。

もちろん、社会は幾分救われており、曖昧だ…
幸いなことに、美は形状のみでないことを、彼らはのちに学び、鏡に映ることのない美を発見していくことになる。。。

しかし、ひとたび、鏡像を虚像とみなしはじめるや、彼らは、それを忌み嫌うようになってゆくのだ。

これが「尼さん」の姿だ。
しかし、自己像を拒絶した彼女達は、自己の内部で克服できた世界の虚像を、実は「鏡像」=「他の人から見たリアルな似像」とまで発展しているところまでは、舵取りできないのだ。
そこで、この他をどうしても誘惑しかねない「美」というのは悲劇的なものになっていく。

美を楽しめるうちは、喜びだ。
しかし、美を拒絶し始めた彼女達にとっては、それは苦しみに変貌するのだ。

やがて、彼女達の多くは、敗北していく。
自分の中の「美」を正直に、対等に扱わない限り、問題が解決しないことを知るのだ。

それは、鏡像に囲まれた彼らが、「増殖」しはじめることまでをリルケは見抜いており、更に、その「コピーされた鏡像」の光量が少しづつ失われていき、徐々に暗くなってゆくことまでも示唆している。

この詩をはじめて読んだときの驚きは、僕の場合、ラカンを凌いだのだ。
 

返答が遅くなりそうです

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年12月15日(木)19時49分45秒
  高橋英利様

掲示板への書き込みをありがとうございます。
私も色々と返答したいことがあるのですが、年末に向けて珍しく仕事が嵩んでおり、ゆっくりと文章を書く余裕が見つからない状態です。申し訳ありません。
新しい論題がありましたら、どうぞ遠慮なく書き込んでいただければ幸いです。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

T8の人々

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月14日(水)23時55分53秒
  大田さん

独りで思考をめぐらせています…また少し交流させてください。
この前お話した、行動心理学分析~エニアグラム~の話題です。

現在巷で発展しているものの基礎になる概念から、歴史上のT8の活動を観察してみたいと想います。

エニアグラムの起源としてグルジェフに立ち返ると、彼の基本講義の中に3つのセンターについては、こう説明が補足されている。

「頭のセンター」と「心のセンター」と「体のセンター」というふうに三つのセンターを分けるとき、このうち「体のセンター」は「本能・運動・性センター」とも呼ばれる。
それ自体が三つのセンターの複合体であるとされている。

ここで所謂「性格分析エニアグラム」でいう「本能センター」の性質と役割について、考察してみたい。

Gの体センターを、そのまま分類として当てはめられるだろうか?
一番の関心は、
・そのエネルギーをどのように導き出し、
・どのように加工し、
・どのように変換し、
・どのように使っているのか?
という点。

どのように使っているのか?に関しては、今では非常に多くのデータが揃っている。
日々、彼らが生きる中で、自然に発露し、足跡を残してくれている。

もうひとつの関心がある。
それは、この無尽蔵とも言える本能センターのエネルギーを使いこなせるタイプの人たちに対して、
思考センターや感情センターのタイプの人たちは、圧倒的にエネルギーの点で劣っているという実感。

あるとき思考や感情で勝負して勝てる相手ではないのだということを僕は悟った。

では、彼らのように、本能センターを目覚めさせることはできないのだろうか・・・?
たとえ、普段は眠ってしまっている本能センターだとしても、それを回転させることができないのだろうか?

彼らが本能センターのエネルギーを変換し、感情や思考の活動をさせるとき、
その源のエネルギーが大きいために、幾分荒削りである印象が強いが、
それは変換ができ、
しかも「持続力」が圧倒的だ。

思考センターのテリトリーとも言える領域に、思考センター以上の成果を示したり、
感情センターのテリトリーとも言えるような領域に、感情センター以上の成果を示すことがある。

ただこの神秘的な「エネルギーの導出過程」については、
彼らが無意識で行っているそのメカニズムを僕達が「意識的に」アプローチすることで、
目覚めていない本能センターのエンジンを回転させる事ができるのではないだろうか・・・?

Gなどの修行ではいろいろな方面から開発にチャレンジしていた。

G本能センターが性質上「自己保存」的な内向的な方向であるのに対し(T9が象徴的)、
G運動センターは、そのありあまるエネルギーを外部に表出したいという欲求があり(T1)、
G性センターは、いよいよ外向的になり、外部へさらに刺激的に作用することをもくろみ、
外部の世界基準を壊しながら自らの拠点を生み出している。(T8)

生と死の欲求を製造し、貯めて貯めて、発露する。

その強烈な個性が、神話の中で息づいている神々に見出され、人間の世界でも
歴史を紐解けば、なんと多くの足跡をT8が残していることだろうか・・・

原初の人間は、エニアグラムの世界では、T9と言われている。
僕は先生の本を読み、ヤルダヴァオートは、グノーシス神話上、最初のT8だと感じている。

彼らは、本来的に、外的発露に対して「リミッター」というものを持ち合わせていない…
 

『愛と終末と神話の世界について』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月12日(月)19時45分57秒
  大田さん
どうもです。また少し交流させてください。

僕がこの大田さんの研究室の掲示板に訪れるのは、大田さんの鋭利な分析をお聞きしたいという理由だけでなく、実存感覚を得ることのできなかった僕の最も危険だった頃である20歳~27歳あたりの学生さんを相手に先生が講話をする立場であるのもその理由だと思います。

伝えたい人は、精神的に無防備で、危険な人…そして無自覚な人

それはサブカルチャーの中では遊戯として捉えることが可能だけれども、社会的希薄性を獲得するために「リアリティ」を渇望しだして活動に移る時、たくさんの<魔の入り口>が潜んでいると思うからなんです。

僕は自分自身の閉じこもった反省ではなく、この虚構に満ちながらも現象化してしまった黙示録的終末観の悪夢(それはでも行き過ぎない点においてはむしろ救いだった)を、同時代の人々と共有しながらも考察していけたらと思っています。

でも…難しいテーマだと想います。
で、学生さんたちには、高校受験を終えた後の思考活動においては、手に負えないくらい化け物的な<思想>それが宗教哲学にはあると想うのです。おそらく学部学生の数年目にはニーチェの哲学ですら驚愕を覚えて、その魔を取り除くことろまではいけないと想います。ニューエイジで言えば、僕は前段にグルジェフの洗礼を受けてしまっているために、麻原の毒性に…実は慣れていたのだと思います。あの人はあの人で異端の巨匠だと感じていますが…危険な香りは漂います。

で、もともと家系が宗教的な背景(新興宗教ではないほう)のある方も多いと想います。
様々な宗教をお持ちの方がおられると想いますが、仏教、キリスト教、イスラム教などそれぞれに終末思想が存在しており、実際の諸生活にはどのくらいの影を落としているのか…それは定かではありませんが、少なくとも宗教に触れている人や現在のサブカルチャーに興味を抱いた若者には、終末という「爆弾」があることを認知すると想います。新興宗教でなくとも。

そこで…このテーマがいかに恐ろしくとも、避けがたいテーマであると感じるのです。特に近代は。
しかし、宗教=終末ではないですし、そこらへんの視野を広げていきたいです。キリスト教の最大の教えは「愛の教え」だと想うので、それを取り上げてみたくなりました。

で、その意味では、「愛の教え」には期待できるものがあると思います。(少なくとも戒めや罰より)
でも、いまやあらゆる事柄に繊細に注意深い視点で挑まなければいけないと感じており、手放しで「愛を賛美する」ことはできなくなっていますが、愛の没入行為自体がロマン主義的ではあるため、大田さんの分析では、そこに何らかの「罠」に似た落とし穴を既に発見なさっているのかもしれません。

「自己と他者の合一」を求める行為の中に、自己の虚像を錯覚する悲愴な物語がナルキッソスだとすれば、
「自己と他者の区別がなくなる境地があるのだ」とする悟りの境地を紹介したくなります。ここにも「闇」が潜んでいますか…?
しかも、実際には<宇宙はひとつ>というヴァーチャルとはいえ体感的な帰結(これは僕自身にもある感覚ですが宗教や精神世界を探求している人には一般に行き着く感覚だと思います…)を「ニューエイジ的なもの」と片付けるのは早計でしょう。

グノーシス主義的に言うと、ソフィアの抱いた最初の疑問、希望、願い…それが「父との合一」であり、それが拒絶されてしまったこと…そこから可視的宇宙が形成された…とするあたり、そのあたりから、始まっている原初のものです。

もはや、これは光や闇という二元論的な視点で捉える範疇ではなく、
その「宇宙のはじまり」が「宇宙の摂理」そのものではないのか…と思うのです。

これを「ソフィアの過ち」と捉えるのがグノーシス主義の代表的な見解となっているのでしょうか。。。
だとしたらそれは「宇宙は始まってしまったこと自体が誤りだった」と言っているのと同じことだと思います。
 

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