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Re: 『隣人愛と自己愛について』

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年12月12日(月)00時27分54秒
  高橋英利様
書き込みを有難うございます。私は全然「先生」などではなく、ただの「ひきこもり」に過ぎませんので、どうぞ大田さんとお呼びいただければ幸いです。

「隣人愛と自己愛」について、何か適切な返答をしたいと思い、色々と考えあぐねたのですが、結果として何も思い付きませんでした。「愛」という概念が「自己愛」の延長線上にあり、ナルキッソスの神話に描かれているように、そこに自己と他者の溶融や混同という危険性が潜んでいることを指摘したのは、精神分析の(あるいはグノーシス主義の)鋭利な洞察の一つだと思います。私もまた、愛という概念に、魅力よりも危うさを感じ取ってしまう人間の一人なのかもしれません。

かつて私が好んで読んでいた作家の一人に、カート・ヴォネガットという人物がいます。彼もまた、愛という概念を敬遠する人間の一人であり、うろ覚えなのですが、「愛を少し減らし、その分思いやりを少し増やせば、世界は今より少し良くなる」という趣旨の発言があったと記憶しています。「愛」という概念に自他の混同の危険性が潜んでいるのに対して、「思いやり」というのは、自己と他者があくまで別の人間であること、「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるかどうか分からないことを前提とした上で、相手のことを少し気に掛ける、という行為なのだと思います。『スラップスティック』という小説などとても面白かったので、機会があればぜひ読んでみて下さい。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 
 

『隣人愛と自己愛について』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月 6日(火)17時10分46秒
  大田先生
というのはもしかしたら嫌かもしれない・・・
太田さん・・・と呼んだほうがよろしいでしょうか。

ところで、「自己愛」に関する探求と洞察は、素晴らしいと思います。
心理学的な面のみならず、神話の世界で発生した契機まで触れられているので。

ところで、そこに直球で問いかけるほどのテーマではないのですが、「関わってくる」なという実感のあるテーマがあります。
もちろん宗教的なテーマであり、所謂、一般的なクリスチャンであれば「異論すらさしはさまない点」になるのですが、掘り下げていきたいなとおもいます。

 「自己愛」を発展させて「隣人愛」というのが、信仰者のテーマとなってきます。

これをそのまま読んで、平和に暮らしていたい心境がありますが、ここではそれをあえて崩して、切り込んで生きたいと思っています。

【引用はじめ】
 カラマゾフの兄弟  ドストエフスキー 四 謀叛 (むほん)

「僕は一つおまえに白状しなければならないんだよ」とイワンは話しだした、「いったい、どうして自分の隣人を愛することができるのやら、僕にはどうにも合点がいかないんだ。僕の考えでは隣人であればこそ愛することができないところを、遠きものなら愛し得ると思うんだがな。僕はいつか何か物の本で、『恵み深きヨアン』(ある一人の聖者なのさ)の伝記を読んだことがあるんだ。なんでも一人の旅人が餓え凍(こご)えてやって来て、暖めてくれと頼んだものだから、この聖者は旅人を自分の寝床へ入れて抱きしめながら、何か恐ろしい病気で腐れかかって、なんともいえぬいやな臭いのする口へ、息を吹きかけてやったというのだ。でも、聖者がそんなことをしたというのは痩せ我慢からだよ、偽りの感激のためだよ、義務観念に強制された愛からだよ、自分で自分に課した苦行のためだよ。誰かある一人の人間を愛するためには、その相手に身を隠していてもらわなくちゃだめだ。ちょっとでも顔をのぞけられたら、愛もそれきりおじゃんになってしまうのさ」
 「このことはゾシマ長老がよく話しておられましたよ」とアリョーシャが口を入れた、「長老様もやっぱり、人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとっては、時おり愛の障害になると言っておられました。しかし、人間性の中には実際、多くの愛が含まれていて、ほとんどキリストの愛に等しいようなものさえありますよ。それは僕自身だって知っていますよ。イワン……」

【引用終わり】

神の似姿として人をを神は作られ、また神話では、ナルキッソスが他ならぬ自分自身を水面で見つめてしまうことで、落とし穴が潜んでいるのだ・・・という事が言われています。

先生はそもそも「水面」そのもの魔性にまで言及しておられたと思いますが、この「形象としての」顔を「認知」することで生じる、一般的に許された「愛」という認識は、実際には「キリストの愛」とはむしろかけ離れてしまうのだ…

ということが、ここで語られています。
イワンに言わせたこの言葉は真実をついていますし、ゾシマ長老の言葉もサスガだな…と僕は思っています。

人は、気配や香りのようなもので愛すべきだと…僕は思っています。
 

終末論とオウムの問題3

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月27日(日)15時06分33秒
  ><イエス本人が「神の国の到来」を待ち望んでいた>…ということは、世界宗教に発展したキリスト教が世界に「終末思想」を機能させる土台に
>一役買っている結果となっている…ということです。逆説的な結果を。その影響力は軽くはないでしょう。

はい、仰るとおりだと思います。『ヨハネ黙示録』の冒頭には、次のように記されています。

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」

極論を言えば、この文章を素直に読んで得られる結論は、次の二つであると思われます。

(1)「すぐにも起こる」と書かれていることが約二千年経っても起こらないのだから、聖書は誤り。キリスト教信仰も誤り。→反キリスト教
(2)聖書に「すぐにも起こる」と書いてあるのだから、すぐ起こるはず。現代社会のさまざまな事件は、終末を予兆している。→原理主義、終末カルト

グーグルで「終末カルト」という言葉で検索してみれば、オウム真理教のみならず、それらの存在が世界中でどれだけの惨劇を引き起こし続けているかということが、よく分かると思います。世界最大の宗教にこうした危険要素が内在しており、明確な回答もないまま放置されているわけですから、確かに大きな問題ですよね。キリスト教徒ではない第三者の立場から言えば、さまざまな宗派を含むキリスト教徒たちが集まって「公会議」を開き、終末論の是非についてあらためて議論した方が良いと思うのですが・・・それも難しいのでしょう。

キリスト教徒の人口が少ない日本において、なぜオウムのような極端な終末カルトが現れたかということについて、ご存じのようにリフトン教授は、第二次大戦における日本人の被爆体験が大きな影響を与えている、と論じています(私も『オウム真理教の精神史』の281頁で、この問題に触れました)。ちなみに、麻原がもっとも初期に提示した予言は、2006年までに核戦争の第一段階が終わり、日本は再び「死の灰」に包まれるだろう、というものでした。この予言はもちろん外れましたが、2011年現在、日本は福島原発からの「死の灰」に脅かされており、おそらくあまり目立たないレベルで、終末論的発想が活気づいているのではないかと想像します。こうした動きに対抗するためにも、キリスト教を始めとするさまざまな宗教に内在する終末論の問題とはどのようなものか、ひいてはオウムとは何だったのかということを、社会がより広く認知しておくべきだと思います。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

RES:終末論とオウムの問題2

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月24日(木)21時08分25秒
編集済
  大田先生

コメントありがとうございます。

>引用はじめ
越智道雄氏の『〈終末思想〉はなぜ生まれてくるのか──ハルマゲドンを待ち望む人々』があります。オウム事件を受けて緊急出版されたためか、あまり構成が練られていないところがあるのですが、参考になる書物だと思います。とはいえ、私が一読した限りでは、オウム全体を「キリスト教終末論」の観点のみから説明しようというのは、やはり無理があるという印象を受けました。
>引用終わり

僕もその本は当時手にしましたが、今ちょっと詳しくは思い出せません。僕は出家した時期と脱会後数年経った時期に、一度全部書物の類を失っているので、またどこかで購入してみないといけません…

ところで、普段から「終末」のことばかり考えている人間ではないのですが(そう思われてしまっているかも…)、せっかく先生とお話できる機会ではあるので、できるだけ珠玉のテーマで語り合いたいと想っており、その中の一つです。

95年か96年頃、橋爪大三郎先生(とはTVで一度しか面識がないです)や大澤真幸先生ともお話させて頂いた経験があるのですが、そこでも僕はさかんに「終末観」について熱く議論を交わしていたような記憶がおぼろげにあります。(笑)
村上春樹さんとの対談においては、かなり「冷めきった」視点で、かわされ、奇異な視線で見つめられました。
ロバート・リフトンさんとは、この点に絞ってかなり長期間にわたり意見を交わしあった記憶があります。。。彼とはかなり頻繁に議論しました…彼は僕以上に「終末思想」の発動に警戒を感じておられたのです。。。

観点として「オウム問題」に絞った場合、おっしゃるとおり要素としては「それだけではない」事は確かです。

おそらく僕の不安を喚起するいくつかの問題についての帰結が、どうやらもはや「オウム真理教」だけではなかったのだということにいきついており、それは「過去」ではなく「未来」への作用であるが故に…この問題を探求する上では様々な研究が必要になってくるのです。なので、いわゆる切り口として『ヨハネの黙示録』を題材にあげました。
これに比べれば、ノストラダムスの大予言も、マヤの予言も時代的認知度と地域的認知度においてどうしても浅くなります。

まあ、今は「マヤ予言」の時期に突入していると言えますが

>引用はじめ
新約聖書の諸文書では、「終末が近い」ということが繰り返し唱えられますが、「では具体的にいつ?」と訊ねると、それに対する答えは明確には存在していません。有名なところでは、『マルコ福音書』13:32や『使徒行伝』1:7に記されているように、終末の時期を決定するのは父なる神の意志に委ねられており、キリストさえもその時期を知ることがないとされているのです。高橋さんが仰るように、これまでの歴史においては、いつまでも訪れない終末に痺れを切らし、「終末は○○年にやって来る!」と断言した人が沢山出てきましたが、聖書の記述によれば、その時点でもうそれらの人々は、神の意志に反しているということになるのですよね。すなわちキリスト教は、「終末が近い!」と言ってアクセルを踏みながら、「いつかは分からない!」と言ってブレーキを掛けるのです。
>引用終わり

まさにここが重要な点なのではないかと想っています。
僕はこのトリックの事を、過去に設定された『装置』だと表現しました。
確か僕は大澤真幸先生との対談で、これはもはや『装置』としか言いようがない…とつぶやいたのです。

起される事件が近代になればなるほど兵器開発の発展により悲惨なものになりますが、その現象をもって「近代の傾向」として大枠は取り損ねていないと想います。(しかし忘れてはならないことがあります。原因と結果の法則によれば、果実の洞察には原因の見極めが必要になります。どこまで深く遡るかについては先生と僕では違いが出ているようですが…)

そして、先生のこの分析と視点は、端的にこの終末観に潜んでいる「心理的葛藤」を表現し、そこに留まっており冷静なものです。
そして、終末思想が「キリスト教」の専売特許ではなく、…多くの宗教では単にその亜流に留まるでしょうが、ルーツの古い宗教や古来から存在している思想の中に、存在していることを知ると、この世界が幻のごとく儚いものであることを感じさせます。

 これは、既にロマン主義に陥っているのだ…と捉えられる傾向がありますが、そのように捉えられると哀しいものがあります。

終末と救済がセットになった物語がいくつか存在します。古くはゾロアスター教というのが出てきました。先生がおっしゃっているように、天使と天使の戦いがあそこには語られております。。。そしてどちらかが「光」でもう一方が「闇」とされています。

僕は以前オウムがゾロアスター教の思想も色濃いのではないか…と感じたのは、教祖の前世ビジョンの話と、集いあう信者についての前世ビジョンを聴いた時に感じたのです。すなわち信者同士の過去世の2分化がありました。

彼はこのように語りかけていました。
「前世から縁のある約された弟子達よ、集まりなさい」…と。
「私に付き従っていた弟子だけでなく、私に恨みを抱いていたであろうものも…歓迎する」

そして集いあう信者達は、あそこに出家しているもの達のなかでも「逆縁」と「親縁」に分かれており、そのことを信者同士が「秘かに」気づき、「秘かに」語り合うのです。
「逆縁」であることに霊的に気づいてしまったサマナは、複雑な想いで…いやむしろだからこそ、今生こそは…と信を強めていましたこのビジョンは阿修羅界での闘いをベースに語られていましたが、敵も味方も取り込み弟子にしたという彼の前世自伝は強烈に機能したのです。。。

 すなわち、説法会に行って、危険を察知し、もしくは反感を抱くものさえも、信者にしていたのです。

。。。このエピソードで一番有名な被告は新実被告です。
他の実行犯が、傷を伴いながら教祖から離れてゆくなか、頑なに教祖信仰を貫いている一人である彼は、自分の心の中では「彼とは刀で切りつけあうほどの仲だった…」と述べているのは注目に値すると想います。

先日、死刑宣告された遠藤死刑囚ですが、彼は教団で「イエスマン」であり、社会的にも「イエスマン」であるとも捉えられていた時期がありますが、彼の親しい信者仲間には、当時このように零していました。

「僕は、尊師のことが、恐くて恐くてたまらないんだ。。。」
恐怖を感じていた人ほど、逃げられないのです。

彼(教祖)の暗喩のメッセージはこうでした。
「やがて光の軍勢と闇の軍勢が戦うだろう、果たして君達はどちらに属すのだ…」

もはや宗教的脅迫としか言いようのない問いかけが「教祖」から「信者」に発せられていました。
そこで、教団の思想体系として、仏教でいう「ヒナヤーナ」「マハーヤーナ」「ヴァジラヤーナ」を順次説いていき、最後には「ヴァジラヤーナ」しか選択させない…というが現状だったと思います。

話がそれました…元に戻します。

>引用はじめ
カトリックにおいてもプロテスタントにおいても、大きな規模を持つ教会は、現世の人々をいかに統治するかに心を尽くし、終末論を抱く急進派が出てこないような抑制(弾圧を含む)を行ってきた、と言えると思います。しかし近代においては、この構図が崩れてしまう。一つには、教会に代わって国家が主権性を掌握し、市民に「信教の自由」を保障したため、極端な終末論を抱く人々を教会が制御できなくなったこと、そして二つには、経済的恐慌や大量破壊兵器の存在、環境破壊の問題など、「世界の破局」を思わせる数多くの要因が新たに登場したため、人々がそれに潜在的な恐怖を覚えるようになった、ということです
>引用終わり

おっしゃる視点は重要だと想います。現代の時代が抱える問題として背負うべき主体が、教会、国家、一個人という変化の上にあるという指摘にはハッとさせられました。
ただし、中世に教会が機能していた頃に、彼らが抑制してきた行いは、いきつくところ「異端裁判」になりました。
ここには、「裁く側」と「裁かれる側」の双方に、非常に解決しずらい難題がありました。
決して、教会が機能していた頃に、「死」や「信仰的生活」に対して、有効で理想的な解決が存在していたとは言えないはずです。

>引用はじめ
『オウム真理教の精神史』でも述べたように、私はオウムの終末論においては、特にこの二つ目の要素が大きな役割を果たしたのでは、と思います。近代社会に出現する終末論には、ある独特の性質が見られます。まずそれは、神の力ではなく、人間の力によって「終末」が引き起こされると考えられることです。神の力が超越的に人間界に介入するのではなく、オウムもそうであったように、戦争・環境破壊・経済破綻など、何らかの人間の行為によって「終末」が到来すると考えている。またそれゆえに、その基盤となる歴史観も、特にキリスト教や聖書に依拠しなければならないわけではありません。『ノストラダムスの大予言』、ヒンドゥー教の神話、マヤのカレンダーなど、いくらでも代替物があるわけです
>引用終わり

その通りだと想います。同感です。
ただし、単純化するために論じたわけではないので、その点は誤解だと想います。伝わらないのはもどかしいのですが…

<イエス本人が「神の国の到来」を待ち望んでいた>…ということは、世界宗教に発展したキリスト教が世界に「終末思想」を機能させる土台に一役買っている結果となっている…ということです。逆説的な結果を。その影響力は軽くはないでしょう。

長文、失礼致しました。
 

終末論とオウムの問題2

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月23日(水)23時39分3秒
  高橋英利様

再度のご投稿ありがとうございます。こちらで分かる範囲で返答させていただきます。

まず、エイレナイオスとグノーシス主義の論争についてですが、エイレナイオスが『異端反駁』という書物で取り上げている論点は主に、「創造主と真の神は同一か」「キリストは受肉したか」「旧約聖書と新約聖書のあいだに一貫性はあるか」という三点であり、終末論はさして問題にされていません。エイレナイオスもグノーシス主義も実は、『ヨハネ黙示録』のことはほとんど取り上げておらず、私にもその明確な理由は分かりません。他の新約文書が、人類の過去と現在に関わるものであるのに対して、『ヨハネ黙示録』は「未来に関する幻視」という特殊な内容ですので、これについて積極的に論じようとする神学者は全般的にあまりいなかった、ということなのかもしれません。

『オウム真理教の精神史』でも参考文献に挙げていますが、終末論とオウムの関係について論じた書物に、越智道雄氏の『〈終末思想〉はなぜ生まれてくるのか──ハルマゲドンを待ち望む人々』があります。オウム事件を受けて緊急出版されたためか、あまり構成が練られていないところがあるのですが、参考になる書物だと思います。とはいえ、私が一読した限りでは、オウム全体を「キリスト教終末論」の観点のみから説明しようというのは、やはり無理があるという印象を受けました。私も『オウム真理教の精神史』の第四章でこの主題について論じていますが、それはあくまで、オウムを形成した多くの要素のなかの「一つ」であり、それのみが特別に決定的であったわけではない、と考えています。

>「終末を恐れる感覚」としてではなく「終末を待ち望む感覚」に変貌した姿が、その頃(1世紀~3世紀頃)から既に生じていたといえるのではないか?

イエス本人が「神の国の到来」を待ち望んでいたわけですから、「終末を待ち望む感覚」は、キリスト教の歴史を通して最初から存在していました。とはいえ、キリスト教の終末論には、ある「巧妙な仕掛け」が施されているのです。

新約聖書の諸文書では、「終末が近い」ということが繰り返し唱えられますが、「では具体的にいつ?」と訊ねると、それに対する答えは明確には存在していません。有名なところでは、『マルコ福音書』13:32や『使徒行伝』1:7に記されているように、終末の時期を決定するのは父なる神の意志に委ねられており、キリストさえもその時期を知ることがないとされているのです。高橋さんが仰るように、これまでの歴史においては、いつまでも訪れない終末に痺れを切らし、「終末は○○年にやって来る!」と断言した人が沢山出てきましたが、聖書の記述によれば、その時点でもうそれらの人々は、神の意志に反しているということになるのですよね。すなわちキリスト教は、「終末が近い!」と言ってアクセルを踏みながら、「いつかは分からない!」と言ってブレーキを掛けるのです。

カトリックにおいてもプロテスタントにおいても、大きな規模を持つ教会は、現世の人々をいかに統治するかに心を尽くし、終末論を抱く急進派が出てこないような抑制(弾圧を含む)を行ってきた、と言えると思います。しかし近代においては、この構図が崩れてしまう。一つには、教会に代わって国家が主権性を掌握し、市民に「信教の自由」を保障したため、極端な終末論を抱く人々を教会が制御できなくなったこと、そして二つには、経済的恐慌や大量破壊兵器の存在、環境破壊の問題など、「世界の破局」を思わせる数多くの要因が新たに登場したため、人々がそれに潜在的な恐怖を覚えるようになった、ということです。

『オウム真理教の精神史』でも述べたように、私はオウムの終末論においては、特にこの二つ目の要素が大きな役割を果たしたのでは、と思います。近代社会に出現する終末論には、ある独特の性質が見られます。まずそれは、神の力ではなく、人間の力によって「終末」が引き起こされると考えられることです。神の力が超越的に人間界に介入するのではなく、オウムもそうであったように、戦争・環境破壊・経済破綻など、何らかの人間の行為によって「終末」が到来すると考えている。またそれゆえに、その基盤となる歴史観も、特にキリスト教や聖書に依拠しなければならないわけではありません。『ノストラダムスの大予言』、ヒンドゥー教の神話、マヤのカレンダーなど、いくらでも代替物があるわけです。

ということで、説明が長くなりましたが、古代キリスト教の終末論がオウムの出現をすでに規定していたというのは、そういう点がなくはないものの、かなり事態を単純化してしまっているのではないかというのが、私の考えです。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

その影響について

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月22日(火)22時51分6秒
  >「終末は近い」という記述で溢れているため)。

この時期、キリスト教のどの派でも構わないのですが、終末がこない事にしびれをきらす一派は現れませんでしたか?
これも調べるのがそれなりに大変であり、先生の知識として既にご存知でしたら是非、ご指摘いただきたいと想います。
僕は、どこかの文献で見かけたことがあるのです。今は忘れてしまいましたが…(たしかナグ・ハマディの中のどこかだったかと)

僕の視点は以下のようなものです。

 「終末を恐れる感覚」としてではなく「終末を待ち望む感覚」に変貌した姿が、その頃(1世紀~3世紀頃)から既に生じていたといえるのではないか?と

 そうなると、それは「近代に属する問題」として括るほど、狭い時期の問題ではなくなってくるのです…。

そして、この新しく変異した終末観=「終末を待ち望む感覚」は、1000年、2000年という区切りのいい年代に「盛り上がってしまう」のではないかと、僕は感じています。それが千年王国の思想(※特に千年期前再臨説)を生み出しており、これは古来のなくなってしまった宗教神話の化石ではなく、実は「今も生き残っている思想」なのではないか…と僕は捉えています。
このような考えに至ったのは、いうまでもなく、僕の体験によるものですが、「鬼気迫る終末観」を身近に目にしてしまったからこそ感じてしまうものです。

 世界にとって、残されるている最後の「工程」は、何処の誰かはわからないが、後は引き金を引くだけ…の状態にまでお膳立てができてしまっているのではないか。

これが、僕が感じている終末観の側面の一つの像になります。

「まずキリストが空中に再臨し、クリスチャンを空中にひきあげ(携挙)、その後大きな困難が地上を襲う」
(患難時代と呼ばれる)。
              患難前携挙説

これとほぼ同じような思想がオウムで教祖が唱えていました。。
問題はここで、オウムだけではないことを発見してしまったことです。

次の youtube をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=lOWMRBwMvuw


これと同じ事をやろうとしていました。。。オウムは。
村井氏は、そのためにどのくらいの飛距離までレーザー光線が届かせることが可能であるか?
どのくらいの出力が必要になり、この装置を冷やすためにどのくらいの水冷施設を作らなければいけないのか?
といったことを調査するように言っていました。

そして、それは「オウム」以外の他の組織、他の国で、既に「実現」していたことを知りました。

これは終末思想を後押しするための単なる演出に過ぎないことは確かだと思われます。
しかし、その効果は、かなり大きいものとなると思われます。
 

終末論の位置づけ

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月22日(火)20時28分6秒
  大田先生

どうもリプライありがとうございます。

>田川氏はこれについて、「教会が終末論を正しいドグマの一つとして固執する限り、その正典には終末論を中心とした文書を入れざるをえないから、その意味で、いずれ黙示録は新約聖書のなかに採用されることになる」(同書145頁)と述べています。

ご教授いただきありがとうございます。またひとつ理由がわかったような気がします。
しかし、エイレナイオス自身の異端反駁の熱意を知れば、論点として大きく取りあえげられておかしくない書物と思います。それどころか、無視できないはずだとさえ思います。
 

終末論とオウムの問題

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月22日(火)01時23分22秒
  高橋英利様

高橋さん、ご投稿いただきありがとうございます。お会いした際にお話ししたことと重なる部分もありますが、私の考えを簡単に回答させていただきます。

まず、新約聖書の文書の選択方法については、マルコ・マタイ・ルカの三つの共観福音書、使徒行伝、パウロ書簡がもっとも重要であるというのが、基本的な考え方としてあったのではないかと思います。さらにこれらに加え、「イエスとは何者であったのか」という問いに答える文書として、『ヨハネ福音書』と『ヨハネ黙示録』が必要不可欠なものとして要請されたのでは、と思います。すなわち、『ヨハネ福音書』において、キリストが神の言葉として世界の「始まり」から存在していたことが論じられ、また『ヨハネ黙示録』では、キリストが世界の「終わり」に再び来臨することが述べられています。イエス・キリストが単なる預言者の一人ではなく、世界の「始まり」と「終わり」を統べる特別な存在であるということは、キリスト教の教義の成立にとってきわめて中核的な要素でした。

新約聖書の正典成立の経緯については、田川建三氏の『書物としての新約聖書』(勁草書房)に詳しく説明されています。ここで述べられていることですが、最初にマルキオン派という宗派が、ルカ福音書とパウロ書簡を中心に、キリスト教の正典を確立しようとしました。エイレナイオスを含む初期教父たちは、この動きに対抗して、正典選別の作業に着手しています。ちなみにエイレナイオスは、『ヨハネ黙示録』の内容を問題視したためか、この文書を正典として扱っていませんが、田川氏はこれについて、「教会が終末論を正しいドグマの一つとして固執する限り、その正典には終末論を中心とした文書を入れざるをえないから、その意味で、いずれ黙示録は新約聖書のなかに採用されることになる」(同書145頁)と述べています。『ヨハネ黙示録』の内容は、多くのキリスト教神学者に問題視されたが、教義のなかから終末論自体を排除することはできなかった(共観福音書もパウロ書簡も、「終末は近い」という記述で溢れているため)。ゆえに、終末のあり方を鮮明に表す文書として、『ヨハネ黙示録』を正典のなかに残さざるをえなかった、ということになるでしょうか。

>これでは、発生の仕方として同等の位置にあった他の福音書が、うかばれない気がします。
>そして、結局は他はみな異端とされてしまう。いささか乱暴すぎないか?…という疑念は常に残ります。
>ただし、作成年代でいうと、4つの福音書が他に比べて先に書かれていたようだ…ということくらいは言えますか?

現在の聖書学では、4つの正典福音書は紀元後一世紀末頃までには成立していたと考えられており、それに対して、『トマス福音書』やその他のグノーシス主義の福音書は、成立年代が二世紀半ば以降と想定されていますので、全般的に正典福音書の方が古いですね。「異端」の福音書は、正典福音書をベースとした「二次創作」と考えて、それほど間違いでないと思います。

お会いした際にお話ししたことですが、歴史的に見れば、「終末論」という発想は、ゾロアスター教における「光と闇の戦争」という観念にその端緒が存在し、その後に、ユダヤ教やキリスト教の黙示文学、グノーシス主義、マニ教等に継承されていったものと考えられます。特に『ヨハネ黙示録』のインパクトはやはり強烈で、確かにオウム真理教は、この文書の影響を強く被っていると見ることができます。

とはいえ私は、オウムにとって『ヨハネ黙示録』が決定的な要因であった、「こうなることは、むしろ計画されていたのではないだろうか・・・もしかしたら。2000年ほど前に」とは考えません。むしろ決定的な要因を形成したのは、近代において人類が、自らの力で地球を壊滅させることのできるような強力な兵器を手にしたことではないでしょうか。このような事態において、『ヨハネ黙示録』という古代の文書が、これまでにない特殊なリアリティを帯びるようになってしまった。そしてオウム真理教は、小規模な教団であっても、実は大量破壊兵器を手にすることが可能であるということに気づいてしまった。「その気になれば自らの手でハルマゲドンを引き起こせる」という発想が現実的なものとなったというのが、オウムにとって本質的なことだったのだと思います。その意味においてオウム事件は、やはり近代に属する問題ではないかというのが、私の考えです。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

『福音書が4つに落ち着いたいきさつ』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月21日(月)13時18分26秒
  なんとなく自己レス的ですが、ひとつは、答えに近いものを見つけました。
>また、聖書編纂の歴史においても、この書物が残され、例えば『トマスの福音書』などが省かれてしまう理由がわからないのです。
吟味の末省かれたのではなく、最初から4つだけに落ち着かせるつもりだったようですね。。。

他のサイトで情報をかき集めました。引用して抜粋いたしますと
http://homepage1.nifty.com/shingaku/p000011.htm

---[引用はじめ]
エイレナイオスにおける福音書~彼の時代にはグノーシス派による多数の福音書が著作された結果、いわば福音書のインフレとも言うべき状況が生まれていた。エイレナイオスはこれに対し、本来の福音書が四つだけであることを主張するため、次のように述べたとされる。

 われわれの住む世界には四つの地域があり、世界を吹く四つの風があり、そして、教会は全地に種まかれ、福音は教会の柱であり土台であり、生命の息であるから、至る処より不滅を吹き込み、人々に生命の火を点ずる四つの柱を教会が持つのは当然のことである。それ故に、万物の造り主であって、ケルビムの上に座し、万物を統合するロゴスが、人々にあらわれた時、四つの形をなしているが、一つの霊によって統合されている福音書をわれわれに与えたのは明らかである。
(『異端駁論』、第3巻11章8節=蛭沼寿雄、『新約正典のプロセス』、山本書店、1972年、p.64)

---[引用終わり]

これを読む限り、論理的な理由があるのではなく、むしろ数秘術的な理由か、もしくは、プラトン主義的な解釈からなのか、最初から「4つ」と断定してかかったいたわけですね。4つに絞るべきだという前提の思考が伺えます。
少なくとも、熟考吟味したような主張はなく、彼もその決定様式に問題意識を持ち合わせている様子もありません。

これでは、発生の仕方として同等の位置にあった他の福音書が、うかばれない気がします。
そして、結局は他はみな異端とされてしまう。いささか乱暴すぎないか?…という疑念は常に残ります。

ただし、作成年代でいうと、4つの福音書が他に比べて先に書かれていたようだ…ということくらいは言えますか?
(だとしても、それはどのような学術的根拠(もしくは科学的根拠)でそのように同定しているのだろうか。。。)
 

『エヴァの誕生秘話に隠されている離脱思想』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月20日(日)14時59分59秒
  大田先生

先生のご著書『グノーシス主義の思想』を読み終えました。
興味深いテーマが盛りだくさんですが、まずエヴァの誕生秘話から、交流させてください。
(※内省的語り口調で違和感があるかもしれませんが、主に大田先生と話しているつもりです。)

「生命の霊」が宿ったエヴァの姿の美しさを目にして、造物主ヤルダヴァオートは性欲が激しく惹起される。そしてヤルダヴァオートがエヴァを凌辱したとき、「生命の霊」はすでにそこから逃げ去っていたのだが、その行為からは、「カイン」と「アベル」という新たな人間達が生み出される。彼らの肉体には、「生命の霊」を模倣して造られた「模倣の霊」が植えつけられ、こうして生み出された人間の種族は、交接と殺害の欲望に絶えず駆り立てられる。人間は放恣な性行によって数を増やし、地に満ちては、互いに争いあい、殺しあうのである。『ヨハネのアポクリフォン』は、これを「運命の鎖」と呼んでいる。

      『グノーシス主義の思想』第3章 鏡の認識 ~凌辱される神~

グノーシス主義は、この誕生と死を繰り返す「運命の鎖」のメカニズムを解き明かすこと、そしてそこからの離脱を図ることが目的とされる。(大田俊寛)

これは所謂仏教的な境地のひとつ、「解脱」と等価的な目的を持っていたことを示すものであり、アプローチの仕方や神々の名が異なっているとはいえ、ここにひとつの共通する理念が浮かび上がってくる。

気づかされるのは次の点だ。

 魂は、この世界に生まれ出でた事を…真に喜んでいる無邪気な状態では決してないのだということ。

しかも、この精神性は、神話や聖書や外典を元にしたものであるにしても、古くから考察されてきた「生」の謎への一つの答えとして哲学的な思推の末にたどり着いたものであることには違いはなく、メタフィジカルな領域において活躍するアイオーンやアルコーン達の物語を持ち出さなくても、恐らく到達可能な解釈だったのではないだろうか。

そして接点として、仏教思想とプラトン主義や他の思想的潮流があったかなかったか…僕は研究していないのでわからない。
しかし、あったにせよ、なかったにせよ、これほど似通った生命の輪廻像と、そこからの「離脱」思想がある点で、この世界の成り立ちについて、到達点が同じであることに、関心を示さないわけにはいかない。

そして、「離脱」が、求道精神の先にあるものだとしたら、その離脱方法こそが、違いとしてたち現れてくるのではないだろうか…
物質的肉体の住まう「この世」の価値が希薄になってゆく危うさにおいて、オウムの思想もグノーシスの思想も共通する何かがあったとして、それはこのふたつに限られた話ではなく、むしろ一般的に宗教という「あの世」をモチーフにしている思想体系にとって、こちら側の世界の観察は、極めて冷ややかに観察されうる傾向がある。その事に今更驚くには値しないだろう。

ただ、忘れてはならないのは、オウムは極めてラジカルに「この世を壊し、この世を救済しようと企んだ」組織であり、現実に発生し、その破壊力は、事実上「武器」を持つに至ってしまった点だ。

 世の中は、ぎりぎりのところで、かろうじて繋がっている状態…それが現在だと想う。

それは、その後の911事件や今年の311を体験した僕達は、フィクションとしてもはや片付けられない感覚が生起しているのではないだろうか。。。

多層的なパラレルワールドがあったとしたら、おそらくその一つの世界では、70トンのサリンが東京上空に散布されていてもおかしくないと思う。そうしたペシミスティックな仮想現実を見て帰り着く「我が家」は恐ろしく心細い。

 なんてとこに居たんだろう…(溜息…)

オウムが関心を抱いていた『ヨハネの黙示録』
…この書物の扱いは、極めて慎重にならざるをえないだろう。それはおそらく、時代を通じ地域を隔て、聖書学者や様々な思想家の方々にとっても解りきっていたことではないだろうか。一抹の不安を覚える。

ただ、明言することは避けたいけれど、これを引き起こそうとするもの達がいずれ現れるのではないかとどこかで予感していた歴史学者は存在した。彼の関心はまさに、このキリスト教的終末観が、引き寄せられようとしている様を欧米において観察してきた人だったが、それがその地ではなく、この日本で、しかもその<カルト>がキリスト教系ではなく仏教系の教義を主軸にすえるものから生まれ出でたことに驚きを隠せないでいるようだった。
(※ここらへんの話は、『日本社会がオウムを生んだ』(だったと思う)で僕は語っていたと思います。)

そしてそうなると、次に僕の感じたことは、この書の編纂のルーツになる。

 こうなることは、むしろ計画されていたのではないだろうか・・・もしかしたら。2000年ほど前に。

破滅的終末思想が生まれる背景には、既に言葉として書かれ、ベストセラーとして『聖書』の一部として取り入れられた時点で、「時限爆弾を抱えていた」と僕は想うのである。

歴史的に見て、当時は、「戦後50年の節目の事件」…と分析された社会現象としてのオウム事件。
決して、そんな浅い時代背景の歪みの露出ではないと僕は感じているのだが、その理由のひとつがこの「終末思想」が『装置』として作用し、導入されていたのではなかったか?という点

ここまできて、先生に問いかけたい研究テーマがあります。

エイレナイオスをはじめとして、何人かの教父達が、その教説の戦いにおいて、グノーシス主義を廃絶する情熱に燃えていた頃、
この『ヨハネの黙示録』の扱いは、どうだったのでしょうか?

また、聖書編纂の歴史においても、この書物が残され、例えば『トマスの福音書』などが省かれてしまう理由がわからないのです。

高橋英利
 

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