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Re: オウム思想の様々な要因について

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月20日(日)00時01分6秒
  高橋英利様

こちらこそ、先週はありがとうございました。大変興味深いお話を聞かせていただきました。私はこの数年間、一人の研究者として、外部からオウムについて考察してきましたが、その分析がどれほどの妥当性を持つのか、また、どのような次元をなお照らし出せていないのかを、具体的に確認することのできる一夜となりました。

高橋さんは、『オウム真理教の精神史』における「カリスマ」に関する記述を高く評価してくださいましたが、しかし同時に、「…いや、もっと深い闇だった」とも仰いました。高橋さんによれば、人類の歴史において、数百万人の人間の命を奪ってなお平気でいられる特異なパーソナリティの持ち主がごく稀に出現しており、麻原彰晃は間違いなくその一人だった、とのことです。そう言われれば確かに、私の記述は、麻原という人間が持っていたリアリティには迫り切れていないところがあり、またそれは、麻原本人とは一度も接したことのない私には、到底無理な課題なのかもしれません。

森達也さんが『A3』において麻原彰晃にこだわり続けているのも、「もっと深い闇」の正体を明らかにしたいという考えがあってのことかもしれませんね。私自身も、今後の研究において、より精緻なカリスマ論を提示できるよう努力したいと思っています。アリス・ミラーの『魂の殺人』という本のなかに、興味深いヒトラー論が収められているそうですので、とりあえず近いうちにそれを読んでみるつもりです。

所詮は外部から眺めているだけの人間でしかないという研究者の限界はありますが、互いの考えを深めつつ、今後も折に触れ対話の機会を持たせていただければ、と思っております。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 
 

オウム思想の様々な要因について

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月19日(土)20時30分20秒
  大田さん

どうもこんにちは。高橋英利です。先週はお話ありがとうございました。
今僕は先生の著した本やそれ以外の諸先生の著した本などにより、様々な領域において考えた事などを表現する素材には恵まれています。これは有意義なことで、単に僕独自の精神の遍歴だけに留めるならば、それが如何なる方向性を持つものであったとしても、「オウム」というブラックホールに落とされてしまう要因として、分析解体されうるものであると思っています。

しかし、それ自体の批判的思索は、価値のあるものだとしても、その素材そのものを生み出した背景や環境の違い、またはむしろ共通したテーマに取り組むときに立ち現れる共時性のようなものを感じたとき、僕は、自分の思想遍歴に対し、むしろ古来の先人達と共通の「内在する精神のダイナミズム」のようなものを感じ、決して簡単に否定しさるような類のものではないことも改めて感じいるのです。

僕が思索の末に、必ずつぶやく言葉、「…いや、もっと深い闇だった。」
という違和感…これは優れた思索者たちと対談をしたあとにも度々感じていたものです。
それは、体験者として、<闇の本体>の近くに近づきすぎた…というのもあると思います。

 彼(※1)の行為は、社会的に悪の中の悪として表現されたけれども、僕らへの方向性(※2)や、そのトリックに似た「方便」(※3)において、その行為が正当化しうるものだと解釈する人達が、たくさん残ってしまった事への驚愕をどう表現すればいいでしょう。(※4)

学問が、ある難題を、ある領域内に留めることに成功したときに感じる感情には、克服感や、達成感、があり、それこそ真理への探求における成果、すなわち、無知な私達はひとつまた前進し知恵を身につけたのだというような雰囲気が蔓延します。

しかし、僕はここに安住できないし、未だに満足のいく説明をすることができないでいます。

果たして、オウムの事件後、オウムの思想史・精神史は解体しえたのか?
ここにまっすぐにトライしている論考は、不思議なことにあまりに少なく、もしくは他の学者さんたちは、少しばかし「気恥ずかしくて」その取り組みを避けていたのかもしれないのだけれども、それを配慮してもなおのこと、分析が少なすぎています。

オウムの思想は、今もってなお、脅威的だったと思います。

この怖さを表現するときに、人は「森で熊に出会った」ことを、熊を見たことのない人たちに、その恐怖を伝えうることが困難なように、いや、むしろ、数回ほど「熊にも出会った」人たちの話を聞けば、「意外とおとなしくて、いいやつだったよ」程度の話は出てくるはずで、そういう意味で、多角的な観察眼を必要としつつも、「熊は魔物に化けるんだ」ということを…伝えなければいけないのです。しかもそれは奥に潜んでいて、滅多に姿を現さない…

また、人は信じえぬものに出くわすときにどのような行動を起すか?についても一言コメントしたい点があります。
これは、グルジェフの語ったエピソードの一つですが、あるとき砂漠でラクダに初めて出会った人が、その奇想天外な容姿に驚き、
そのような生物をこれまで彼の生活圏内で見たことがなかったためか、彼は最初の頃、ひどく狼狽し、驚くのだけれども、また自分の生活圏に戻ったときに、周囲のものにこう話します。
「ラクダ?、そんなものは見なかったし、いなかったよ。」


※1:麻原のこと
※2:信者向けた説法には逆説的な2面性があった。
※3:マルパ、ミラレパ、ティローパの特異で奇異なな物語がしつこくしつこく語られている意図を考察してもらいたい。
※4:オウムワードで言うところの「マハームドラー」、チベット密教で言うところの「グルイズム」、もっと解りやすい例でいうところの、教師と生徒の関係性における学問的核心部分への誘い。現存するアレフなど、まだ信じている人が現在進行形でいること。
 

世代間の継承の問題

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月 6日(日)11時37分52秒
  高橋さん、リプライを有難うございます。
現在の高橋さんのお考えを知ることができ、嬉しく思います。

少し大きな話になりますが、人類は長い歴史において、「生き残ることが精一杯」という時代が大半を占め、「いかにして次世代を生き残らせるか」ということに苦慮してきたのだと思います。
しかし、科学や経済が急速に発展した結果、次世代が生き残ること自体は、それほど難しくなくなりました。むしろ爆発的な人口増加の方が、大きな問題となっています。またそのなかで、日本を含む先進国では、明確な原因が分からないまま人口増が頭打ちとなり、さらには減少に転じるという現象も見られるようになりました。

これまでの宗教や倫理は、何らかの形で、「いかにして次世代を生き残らせるか」という問題意識を基調にしていた。しかし、上述のような歴史的変化のなかで、「次世代のことを考えるよりも、自分個人のことを優先した方が合理的だ」という意識が、次第に優位を占めるようになってきた。こうした変化は、短期間のあいだに急速に起こっており、実はそのことに、社会も宗教もまだうまく適応できていないのかもしれません(国債や年金の問題など、世代間の継承関係をどのようにして安定化させるかということに、どの社会や国家も苦慮しているわけですから)。また、こうした大きな社会的変化や歪みが、オウムのような宗教が生まれた遠因になっているのかもしれません。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

ありがとうございます

 投稿者:オブローモフメール  投稿日:2011年11月 6日(日)09時14分4秒
  大田様
まさに私が心で思っていて、文字に出来なかったもやもやの部分を的確に表現していただき感謝です。
駄文失礼いたしました。

http://twitter.com/#!/irie_iriichi

 

人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える・・・が、

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月 5日(土)23時35分41秒
  どうもです。少しづつですが、交流させてください。
本を読みながら、感じたことなどをつれづれにですが。。。

人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える。死によって肉体は潰え、全ては無に変えるかのように見える。しかし、実はそうではない。死んだ人間が生きているあいだに作り上げた財産や、彼が伝達してきた知識は、残された生者たちのなかでなおも行き続けるからである。この意味において人間の生は、その死後もなお存続するといわなければならない。 ~p28 そもそも「宗教」とは何か 『オウム真理教の精神史』~


クリシュナムルティは、イエスの存在に関して、その影響力をして、「エコーしているのだ」とかつて語っていました。僕の記憶の中での言葉なので実際の正確な言葉であるかどうかはわからないですが、この表現はすごく的を得た言葉で納得がいくものだったのを記憶しています。
この意味するところを、キリストという特異な存在から広げて、人類一般の存在全てに当てはめてみると、またグッとくるものがあります。
人間の生は短いものですが、その僅かな期間における生命活動は、もしそれが何らかの形を形成するところまでいったのならば、連綿とエコーしてゆくのだということを示唆しうるものだからです。

この意味を捉えて生活すると、無駄なものはひとつとして存在せず、その輪郭はぼやけたものから鮮明なものに至る違いこそあれ、それは次世代に受け継がれることを意味します。

たとえ、それが破壊的で非生産的なものや悪意に染まった感情ですら、またはその逆に他者に親和的で清廉な意識状態においても、自分の好き嫌いに関係なく、それは波動として伝わるのです。
横軸~同時代のこの世界への方向性だけでなく、縦軸~次の時代への方向性~へと

この感覚があって、初めて人は、次世代への責任感を持ちえるし、狭量な精神から拡大した精神へと成長できるものだと想います。
そして、今ここにあるものが、自分の存在や境遇を含め、過去の<何らかの>産物であることを意識できるようになります。

哲学や神秘学、そして宗教には、そうした事を、気づかせうるものがあります。

とかく宗教が反社会性を帯びるものとして変貌を遂げ、その姿に驚愕することがあったとしても、人の精神に年輪のごとく刻まれたもののように感じる瞬間があります。
 

ご投稿有難うございます

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月 5日(土)22時39分49秒
  高橋英利さん、オブローモフさん、ご投稿いただき有難うございます。

オウム事件は、日本の宗教学が根本的に歪んだ状態にあるということが如実に示された出来事であったと思います。あの時点で、それまでの前提をいったんすべて取り払い、「そもそも宗教とは何なのか」という出発点から議論をやり直すべきだったのですが、そうした作業に着手した研究者は一人もいませんでした。立場や看板をすげ替えただけで、多くの宗教学者が、今もオウム事件以前と同じことを言い続けています。私はそのことが、高橋さんの「傷が癒えない」一つの原因となっているのではないかと思います。

高橋さんとは、直接お会いする話を進めていますので、その際にまた詳しくお話しできれば、と思っております。

80年代のバブル期、私はまだ子どもでしたので、当時の雰囲気が正確には分からないのですが、多くの日本人が何らかの形で「全能感」に酔い痴れていたのでは、と考えます。一方では、世界における経済的覇権を握ることによる「全能感」がありました。他方、それに違和感を覚えた人も沢山おり、彼らはポストモダニズム的な革命思想や超人思想、あるいはオウムのような精神世界運動に身を投じることによって、資本主義全能論に異議を唱えた。しかし、そういった人々も実は、別の種類の歪な「全能感」を追い求めていた。90年代に入り、バブル崩壊・オウム事件が起こることによって、資本主義的全能感と反資本主義的全能感の両方が潰えてしまい、あらゆる希望が見失われてしまったというのが、今の日本社会の現状ではないかと、私は考えています。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

はじめまして、フォロワーです。

 投稿者:オブローモフメール  投稿日:2011年11月 5日(土)18時41分23秒
    はじめまして。
  貴殿のツイートをいつからか、とはいってもここ一ヶ月くらい前からフォローさせていただいております、
オブローモフ(http://twitter.com/#!/irie_iriichi)と申します。
  貴殿のツイートになみなみならぬ、真摯で丁寧な言葉を拝見し、頭の下がる思いでTLを拝読させていただきました。今後とも宜しくお願い致します。
  著作はまだ読んでいないので申し訳ありません。私個人のキャッシュフロー(小遣い)がよくなりましたら、購入させていただきます。(苦笑)
  私も、オウム真理教の実行(重要)犯や、元信者である高橋英利氏とたぶん同世代にあたる、
1965年生まれです。
  オウム真理教と、高橋英利氏の話題がでて来たので、
東京都区内に住んでいた宗教学など無学な私のオウム雑感を聞いていただきたくなりました。(という話題でもいいのですね?)軽く流して下さい。
  当時のメーカ勤務の自分(30歳前後)を振り返ると、「宝島30」を読んでいたし、30歳になっても結局なにもしなかったなあという気分。
  高橋英利氏が、この掲示板でも書いているように「哲学、形而上学、神秘思想、ニューエイジ…」は、
同世代としてかなり同意できる雰囲気を上手く表現した言葉であると思います。
  私としても、バブルではしゃいでいた世間と、バブルでも少々ボーナスが増えただけのメーカ勤務の技術者の内なる平常と、世間とのズレ(これはマスコミが醸成したとも言えるのですが)に追いついて行かれないという気持ちを内包していました。
  何かし忘れていたのではないのかということです。30歳にもなればいっぱしの大人であるにも関わらす、社会の成員としての役割を果たしてきたのかという気持ちと思考、そして後ろめたさ。自分はそのバブルの欠片を食しているだけで、それを社会に還元できていないという思い。
  この気持ちを同世代に一般化することはできないとは思いますが、その気持ちを「哲学」「社会運動」などを入り口として、満たしてくれるとも思っていたのも事実です。それが高橋氏も言う「哲学・・・ニューエイジ」ということなのかと解釈をしております。
  当時は本屋に行けば「ムー」「トワイライトゾーン」などの雑誌が平積みで置いてあり、宗教というよりもなにかしらの力(神秘的なものも含む)を自らに取り込み、それを社会に還元するという雰囲気でその雑誌を読んでいた人達が多くいたような気がします。
  そこに持ってきて、「オウム真理教はかなり正統なる仏教宗教団体だ」などという言説が「朝まで生テレビ」を代表とするマスコミなどで繰り返し流されて、
そこに、その当時の雰囲気を含んだ世代の人間が多く集まったとしても、それは自然なことだったと思います。
 これらが大田先生の繰り返しおっしゃっている宗教学会の総括にもつながるのでしょうが、
宗教学会の一部の著名(マスコ的に)な方々も地下鉄サリン事件以前にはかなりオウム真理教を評価していたとは、当時の雰囲気だけで言っても感じたことは、確かです。
 大田先生のおっしゃっている「オウム真理教に関わった宗教学会の総括」に関しては全くその通りだと思います。しかしながら、社会と寝てしまった、いや現在でも寝ていることで「利益」を享受する人間が学会内に居る限り、そして自らの言動を自ら完膚無きまでに自己批判できる人が多く出てこないことではなかなかそうもいかないような気がします。
 これは学会が異なっても例えば「原子力学会」でもそうだと思います。と、まとまりのない文章で掲示板を汚して申し訳ありません。これからもTL拝見させてください。
 ・・・msxネタには笑いました。

http://twitter.com/#!/irie_iriichi

 

(無題)

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月 5日(土)18時12分4秒
  ここ10年以上は、「沈黙」の状態の僕ですが、論点がたくさん残されていることには改めて気づかされます。当時の僕自身の残した言葉を拾い集めるのも大変なのですが(笑)、予期せぬ影響力に関しましても、無防備なまま突き進んでいた時期があり、すごい時期でした。

「僕と中沢新一さんのサリン事件」…あれは、僕の中で確かに事件でした。(苦笑)
そして、心情的には一人の学者さんと争うことは避けたかったのですが、そこで問いかけられたテーマは、かなり核心部分であるために、僕は一歩も引けなくなってしまったのです。

際どい立場でもあり、今も、実はまだ傷が言えていません。
その後、島田裕己先生の本には、だいぶ救われましたが…

深く考察していただける方々には、本当に頭が下がる想いです。

提示したいテーマもいくつかございますが、どこかでお話できれば、その時にでも。。

高橋 英利
 

高橋様、書き込みありがとうございます

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月 5日(土)14時28分34秒
編集済
  高橋英利様、掲示板にメッセージをいただき、誠にありがとうございました。
現在もお元気でいらっしゃることが分かり、本当に嬉しく思っております。

高橋さんのオウム関係の一連の著作、また「僕と中沢新一さんのサリン事件」という論考には、とても多くのことを学ばせていただきました。
ご納得いただけるかどうか分かりませんが、当時中沢氏が高橋さんに向けた発言に対し、同じ宗教学に携わる者として、心より謝罪させていただきたいと思っております。本当に申し訳ありませんでした。

あれだけ大きな出来事であったにもかかわらず、オウム事件を真摯に反省・総括しようという動きは、宗教学内にはほとんど見られません。私の著作や発言に対しても、ほぼ黙殺されているという状況です。
私は非力な一学徒に過ぎませんが、宗教学のあり方を変えるため、また、社会全般についての考察を深めてゆくために、これからも地道な努力を続けたいと思っています。今後とも、お力添えをいただければ幸いです。

それでは、取り急ぎのご返答まで。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

はじめまして

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月 5日(土)13時00分57秒
  はじめまして
元オウムの高橋英利です。
まだ拾い読みの段階ですが、先生の著書を最近読ませて頂いています。

いろいろ感じる事もあり、まだまとまっている思想があるわけではないのですが、
一度はお話してみたい…という想いがこみ上げてきます。

もうだいぶ前のこととはいえ、僕があそこの扉を開いた経緯には、
哲学、形而上学、神秘思想、ニューエイジ…というプロセスがありました。

正直、そこらへんの事を理解している人は当時あまりおられなくて、先生のおっしゃるとおり、社会現象としてのオウム像ばかりが考察されていました。

そういう意味で、一度しっかりとした精神史を追いかけてゆく必要性を感じていました。

まだ多くは語れそうにないのですが、少なくとも先生の持たれた視点は有意義なものだと僕は感じています。

これからも、鋭い視点で研究なさってください。応援しています。
歴史は繰り返すというけれど、そこから学ぶのも人の価値だと想います。
少なくとも、僕は、最も学ばなければいけないものの一人でしょう。


高橋 英利


 

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