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明けましておめでとうございます

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2012年 1月 5日(木)15時13分55秒
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  明けましておめでとうございます。新年早々、平田信容疑者の出頭という出来事があり、まだまだオウム事件は終わっていないということを印象づける年明けになりましたね。

高橋英利さん、返答が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。年末年始のドタバタも一通り過ぎ去り、通常の生活リズムが戻ってきましたので、徐々に私からもリプライさせていただきたいと思います。とはいえ、高橋さんからの書き込みが沢山溜まってしまいましたので、まずは簡単に答えられる範囲で。

■リルケの詩、エニアグラムについて
リルケの「鏡像」という詩は、美しいですが、かなり難解ですね。詩を読み慣れていない私には十分に理解することはできませんが、確かにグノーシス主義の鏡像論と似たモチーフを感じます。自己同一性をもたらすとともに、他者によって収奪されてゆく、鏡像の両義性を指摘しているという点で。

グルジェフのエニアグラムについては、鈴木秀子さんの『9つの性格』くらいしか手元に参考文献がなく、これも私には十分に理解することができません。何かお薦めの文献がありましたら、教えていただけますでしょうか。

鈴木秀子さんの本をパラパラと読み返した限りでは、グルジェフのエニアグラムは、ユングの唱えていたタイプ論やペルソナ論と似たところがあると感じました。フロイトも含むさまざまな深層心理学は、これまで多くの誤謬を犯してしまったため、慎重な研究者には敬遠されているところがありますが、過去の失敗を真摯に反省し、再び理論を適切に整理すれば、私にはまだまだそこから汲むべき事柄があるように思えます。

さまざまなタイプに分類される「自我意識」を脱却すれば、その奥に「本当に自分」が潜んでいるというユングやグルジェフの「真我論」は、私にはとても許容できないものですが、人間が他者の欲望を引きつけるため、あるいは社会と折り合ってゆくために種々の「ペルソナ」をまとい、複数の自我意識を持っているという考え方は、とても面白いと思います。例えば、岡野憲一郎さんの『心のマルチ・ネットワーク 脳と心の多重理論』では、人間の意識にはもともと複数の人格が宿っており、それらのあいだの絶えざる「内なる対話」によって意志決定が為されているという理論が提示されており、私は興味深く読みました。こういった理論を発展させてゆけば、これまで「神秘経験」や「宗教経験」と呼ばれてきたものが、より詳細に分析できるのかもしれません。それによって麻原のパーソナリティが分析できるのかは微妙ですが・・・。

■ゾロアスター教の二元論について
「ラーフラ」氏に関する興味深いエピソードを教えていただき、有難うございます。お会いした際にお話ししたとおり、私自身はオウムの二元論は、ゾロアスター教的と言うより、ロマン主義的で原理主義的なものではないかと考えています。古代思想を扱う上で重要な点は、近代の「色眼鏡」を通してそれを解釈するのではなく、その思想が当時の歴史的背景においてどのような仕方で存在していたのかを、冷静に考察することです。ゾロアスター教について考える場合でも、まずは『アヴェスター』という文献を正確に読み解くところから始めなければならないと思います(私はゾロアスター教の文献をまったく読んだことがないため、まだ何とも言えないのですが)。ゾロアスター教にせよグノーシス主義にせよ、古代の文献を自分で読んでみると、得てして、さまざまな研究書で語られているものとはかなり違うという印象を受けるものです。

ユングも繰り返し主張していることですが、近代のロマン主義においては、精神の深層に到達するためには人はいったん「悪」の領域を通過しなければならないという理屈から、「悪の存在の肯定性」が語られるようになりました。こうした善悪論は、私の知る限り、古代思想にはまったく存在しないものです。麻原が自分を「悪魔」である可能性について語ったという事柄に対しても、私にはそれは、とても近代的な言説であるように感じられます。

■グノーシス主義における惑星天の扱いについて
>この7つの惑星天の神々というのは、現在週の呼び名になっている、土日月火水木金を
>表すのだろうけれども、本来の惑わす星=惑星に該当するのは、土星、火星、水星、金
>星、木星の5つだけであり、月と太陽の天に表現されている様を見れば一目瞭然ですが、
>惑わす星と認識されるのは、考えにくいです…

うーん、なるほど。確かに近代の天体論で言えば、太陽は恒星、月は衛星であり、惑星ではないですね・・・。私はこの点に関心が薄く、あまり配慮していませんでした。占星術に詳しい高橋さんの方が、よくご存じの事柄かもしれません。

実は「グノーシス主義」の文献のあいだでも、その宇宙像は細かな点で相互に食い違っています。しかし全体として言えば、古代末期の宇宙論においては、宇宙を「恒星天」「惑星天」「月下界」に三分するのが通例であり、グノーシス主義も大枠でそれに倣っていると考えることができます。例えば、グノーシス主義とも関係が深い中期プラトン主義者アルキノスの『プラトン哲学要綱』というテキストでは、次のような記述があります。

「さて、惑星天内には七つの天球が存在するので、神は素材の大部分を火から取りながら、目に見える七つの天体を創造して、「別のもの」の彷徨える軌道から成る(七つの)天球に配置した。月を神は地上から見て最初の軌道に置いた。太陽は二番目の軌道に置き、金星およびヘルメスの聖なる星と呼ばれる惑星(=水星)は、速度の点では太陽と同じだが、太陽からは離れている軌道に配置した。さらにその上方のそれぞれ固有の天球には他の惑星を置いた。それらの内でもっとも動きが遅い惑星すなわち、人々がクロノスと呼ぶ星(=土星)は、恒星天のすぐ下に横たわる天球に置き、その下には、動きの遅さでそれに次ぐもの、すなわち、ゼウスとあだ名される惑星(=木星)、さらにその下にはアレスの惑星(=火星)を置いた。第八の天球には至上の大能があって、すべてのものを包み込んでいる。」(大貫隆『グノーシス考』三〇五~三〇六頁の翻訳)

このように、古代末期の宇宙論では、太陽や月は「惑星天」に属すると考えられていたようなのです。しかし、現代的な観点からすればそれは、「七曜天」とでも称するべきなのかもしれないですね。
 
 
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