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大田さん
どうもこんにちは。高橋英利です。先週はお話ありがとうございました。
今僕は先生の著した本やそれ以外の諸先生の著した本などにより、様々な領域において考えた事などを表現する素材には恵まれています。これは有意義なことで、単に僕独自の精神の遍歴だけに留めるならば、それが如何なる方向性を持つものであったとしても、「オウム」というブラックホールに落とされてしまう要因として、分析解体されうるものであると思っています。
しかし、それ自体の批判的思索は、価値のあるものだとしても、その素材そのものを生み出した背景や環境の違い、またはむしろ共通したテーマに取り組むときに立ち現れる共時性のようなものを感じたとき、僕は、自分の思想遍歴に対し、むしろ古来の先人達と共通の「内在する精神のダイナミズム」のようなものを感じ、決して簡単に否定しさるような類のものではないことも改めて感じいるのです。
僕が思索の末に、必ずつぶやく言葉、「…いや、もっと深い闇だった。」
という違和感…これは優れた思索者たちと対談をしたあとにも度々感じていたものです。
それは、体験者として、<闇の本体>の近くに近づきすぎた…というのもあると思います。
彼(※1)の行為は、社会的に悪の中の悪として表現されたけれども、僕らへの方向性(※2)や、そのトリックに似た「方便」(※3)において、その行為が正当化しうるものだと解釈する人達が、たくさん残ってしまった事への驚愕をどう表現すればいいでしょう。(※4)
学問が、ある難題を、ある領域内に留めることに成功したときに感じる感情には、克服感や、達成感、があり、それこそ真理への探求における成果、すなわち、無知な私達はひとつまた前進し知恵を身につけたのだというような雰囲気が蔓延します。
しかし、僕はここに安住できないし、未だに満足のいく説明をすることができないでいます。
果たして、オウムの事件後、オウムの思想史・精神史は解体しえたのか?
ここにまっすぐにトライしている論考は、不思議なことにあまりに少なく、もしくは他の学者さんたちは、少しばかし「気恥ずかしくて」その取り組みを避けていたのかもしれないのだけれども、それを配慮してもなおのこと、分析が少なすぎています。
オウムの思想は、今もってなお、脅威的だったと思います。
この怖さを表現するときに、人は「森で熊に出会った」ことを、熊を見たことのない人たちに、その恐怖を伝えうることが困難なように、いや、むしろ、数回ほど「熊にも出会った」人たちの話を聞けば、「意外とおとなしくて、いいやつだったよ」程度の話は出てくるはずで、そういう意味で、多角的な観察眼を必要としつつも、「熊は魔物に化けるんだ」ということを…伝えなければいけないのです。しかもそれは奥に潜んでいて、滅多に姿を現さない…
また、人は信じえぬものに出くわすときにどのような行動を起すか?についても一言コメントしたい点があります。
これは、グルジェフの語ったエピソードの一つですが、あるとき砂漠でラクダに初めて出会った人が、その奇想天外な容姿に驚き、
そのような生物をこれまで彼の生活圏内で見たことがなかったためか、彼は最初の頃、ひどく狼狽し、驚くのだけれども、また自分の生活圏に戻ったときに、周囲のものにこう話します。
「ラクダ?、そんなものは見なかったし、いなかったよ。」
※1:麻原のこと
※2:信者向けた説法には逆説的な2面性があった。
※3:マルパ、ミラレパ、ティローパの特異で奇異なな物語がしつこくしつこく語られている意図を考察してもらいたい。
※4:オウムワードで言うところの「マハームドラー」、チベット密教で言うところの「グルイズム」、もっと解りやすい例でいうところの、教師と生徒の関係性における学問的核心部分への誘い。現存するアレフなど、まだ信じている人が現在進行形でいること。
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