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『隣人愛と自己愛について』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月 6日(火)17時10分46秒
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  大田先生
というのはもしかしたら嫌かもしれない・・・
太田さん・・・と呼んだほうがよろしいでしょうか。

ところで、「自己愛」に関する探求と洞察は、素晴らしいと思います。
心理学的な面のみならず、神話の世界で発生した契機まで触れられているので。

ところで、そこに直球で問いかけるほどのテーマではないのですが、「関わってくる」なという実感のあるテーマがあります。
もちろん宗教的なテーマであり、所謂、一般的なクリスチャンであれば「異論すらさしはさまない点」になるのですが、掘り下げていきたいなとおもいます。

 「自己愛」を発展させて「隣人愛」というのが、信仰者のテーマとなってきます。

これをそのまま読んで、平和に暮らしていたい心境がありますが、ここではそれをあえて崩して、切り込んで生きたいと思っています。

【引用はじめ】
 カラマゾフの兄弟  ドストエフスキー 四 謀叛 (むほん)

「僕は一つおまえに白状しなければならないんだよ」とイワンは話しだした、「いったい、どうして自分の隣人を愛することができるのやら、僕にはどうにも合点がいかないんだ。僕の考えでは隣人であればこそ愛することができないところを、遠きものなら愛し得ると思うんだがな。僕はいつか何か物の本で、『恵み深きヨアン』(ある一人の聖者なのさ)の伝記を読んだことがあるんだ。なんでも一人の旅人が餓え凍(こご)えてやって来て、暖めてくれと頼んだものだから、この聖者は旅人を自分の寝床へ入れて抱きしめながら、何か恐ろしい病気で腐れかかって、なんともいえぬいやな臭いのする口へ、息を吹きかけてやったというのだ。でも、聖者がそんなことをしたというのは痩せ我慢からだよ、偽りの感激のためだよ、義務観念に強制された愛からだよ、自分で自分に課した苦行のためだよ。誰かある一人の人間を愛するためには、その相手に身を隠していてもらわなくちゃだめだ。ちょっとでも顔をのぞけられたら、愛もそれきりおじゃんになってしまうのさ」
 「このことはゾシマ長老がよく話しておられましたよ」とアリョーシャが口を入れた、「長老様もやっぱり、人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとっては、時おり愛の障害になると言っておられました。しかし、人間性の中には実際、多くの愛が含まれていて、ほとんどキリストの愛に等しいようなものさえありますよ。それは僕自身だって知っていますよ。イワン……」

【引用終わり】

神の似姿として人をを神は作られ、また神話では、ナルキッソスが他ならぬ自分自身を水面で見つめてしまうことで、落とし穴が潜んでいるのだ・・・という事が言われています。

先生はそもそも「水面」そのもの魔性にまで言及しておられたと思いますが、この「形象としての」顔を「認知」することで生じる、一般的に許された「愛」という認識は、実際には「キリストの愛」とはむしろかけ離れてしまうのだ…

ということが、ここで語られています。
イワンに言わせたこの言葉は真実をついていますし、ゾシマ長老の言葉もサスガだな…と僕は思っています。

人は、気配や香りのようなもので愛すべきだと…僕は思っています。
 
 
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