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大田さん
お忙しいところ、恐れ入ります。
思考はしばらく溢れてきており、それを掬い取ることがやっとであり、また提示する場も僕にはないのです。
この種の視点において、話し相手が、僕には存在しないのです…
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「鏡像」リルケ~続き~
2
くりかえし鏡の中から取り出して
お前はお前に新しく自分を付け加える
まるで花瓶の中でのように お前の中で
自分の似姿を整えながら それにお前と呼びかける
その花咲いたお前の様々な鏡像に。
お前はしばらくそっとその似姿に気を配っているが
やがてその幸福に圧倒されながら
それをまたお前の身体に取り戻す
3
ああ 彼女と それから彼女の鏡像に
それを守る箱の中に入っている宝石のように
おだやかなもののなかに置かれて 彼女達のなかで存在し続けている彼女の鏡像に
愛する男は寄りかかっている 代わる代わる
彼女とそれから彼女のなかのこの宝石を感じながら…
うちに自分の姿を閉じ込めて持っていない彼
その彼の深い内部からは溢れ出でているのだ
意識された世界と孤独とが
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ここに登場している儚くも可憐な女性は、原初のエヴァなのか、それともソフィアなのか…?
そしてどちらにせよ、それは我々人類の根幹をなす「自己認識」の「摂理」そのものを見事に表してはいないだろうか?
人は、対象にまで「認知」されないと、あやふやで自分を含めて「愛することが不可能」なのだ。。。
これは「自己愛」という結末としてではなく、むしろ反対方向の、「出発点」としての「鏡」の作用と言えるだろう。
例えば、性格分析エニアグラムT7の人々が、かくも多趣味に意識を広げる様は、その能力の可能性を確認したかったからではない。
彼らは無自覚にも、「自己の領域」を確認したかったからだろう。彼らの原初の根幹のトラウマは、「愛する母親に振り向いてもらえなかった」からだ。彼らが一般に陽気で楽観主義だと言われる原因は、エニアグラムではそこまで解析されていないが…
「陽気」でいないと「つぶれそうだ」からであり、
自分以外の他者…それは兄だったり、弟だったり、姉だったり妹だったりする…に母親が意識を集中するあまり、それをなんとか振り向かせようとしているけなげな「気持ち」からなんだ。。。
時に父親であることさえあるが、その場合、その母親は、「子供など本来愛しておらず、自分のパートナーのこと」だけしかみていないのだ。
その意味で、「自己と世界の境界線が不明瞭であるという」その恐怖に付きまとわれるT4は、同じく自己認識で成長の過程で必要になる母親の愛を得ることに失敗してしまったT7と同調する部分があり、行動原理として反対に振舞うとしても、本質において共感していることが多い。(T7は友達がたくさんいてクラスで陽気で人気者、T4は影にひっそりと暗くじめつきながら、他者を眼光するどく観察している。)
暗くじめついたT4を、本来であれば「忌み嫌う」はずのT7が必ずと言っていいほどT4の友人にはいる。
T4はT7に確かに救われている…彼らの無邪気な微笑の中に、自分の痛みを和らげるからだ。
不可欠と言っていいくらいだ。。。
しかし、T7にとっては、むしろT4は脅威なのだ。決して自分では近づこうとしない、魔の洞窟に分け入り、帰ってきたのだから…
その点において、おそらくT7は、T4のその呆れた冒険心に関心を寄せながら、その<自分では見ることのできない>「魔」の様子を探ろうとするのだ。。。伝え聞きでもいい…自分の恐怖と共感するものを体験したT4を探していたのだから。
僕が占い師だと知ると、まず間違いなく、後に近寄り、こっそりと、非常にこっそりと
「・・・次に大きな地震が起こるとしたら、何処なのか私には教えて、決して馬鹿にしたりしないから…」
などと言う。普段葉人前で「占いとかやる人信じられない…きっと心が弱いんだよ」とか吹聴しながらも。
僕の経歴で地震占星術を知る人に至っては、むしろ「ものめずらしさ」や「好奇心」からそのことを聞き出そうとする。
かれらは、みな「鏡」を必要としている。
この場合、「鏡」は自己の鏡としてではなく、社会的存在としての不安を、別角度から観察してみる情報源としての「鏡」となってくる。
人は、なぜか「情報」を得ると、問題が未だ解決していなくても、安心するらしい。
だから、リルケの言うように(発展させて)「しばらくそっとその似姿に気を配っているが…やがてそれを「鏡像」のなかの他者に返すのだ」
原初の人間をアダム=男性としてみると、この詩はひどくこっけいに映る。
でも、原初の知性体をむしろソフィアと見るか、アダムそのものを男性原理と女性原理の融合した存在とみると
リルケの詩で最初に「女性」に視点を当てているのは充分に納得できる。
申し訳程度にしか出てこない「男性」だが、最後に
「うちに自分の姿を閉じ込めて持っていない彼 その彼の深い内部からは溢れ出でているのだ 意識された世界と孤独とが」
というところで、もう一つの人間の姿がちゃんとにじみ出ている。
人はイメージに溺れる。
これをロマン主義の罠と捉えることもできるかもしれない・・・
けれども、グルジェフが「食物論」で述べているように、
人は三種類の食物を有しており、「固形食物、空気」までは認識しているが「イメージを食べている」ことに気づいていいないのだ。と警鐘を鳴らしている。
そして、彼の弟子たちに、「一切のイメージを生起させずに生活を行う」修行を課し、
ほんのささいなイメージなくして、息をし続けることが不可能であることを…気づかせるのだ。
イメージというのは、陥ってしまう罠のごとく表現されることが多い。
しかし、ここで僕の考えを述べるとすれば、「イメージは酸素と同じくらい人間に必要不可欠な微細なもの」ということになる。
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