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Re: 山形浩生という人物について

 投稿者:高橋英利  投稿日:2012年 4月12日(木)13時58分49秒
編集済
  僕より前からご存知で親しそうで一定の評価をしていらっしゃいますが、彼の見解は

【引用】
宮崎哲弥が本書で扱う夫婦別姓やオウムなんて、実はどうでもいい話だ。今のところは。夫婦別姓? すればぁ? オウムなんて、踊ったヤツがバカなんだから、皆殺しにすればいい。いい見せしめと余興になるだろう。そんだけの話。オウムの教義云々って、いちいち泡沫新興宗教の教義なんかチェックしてられますか、あほくさい。

http://cruel.org/wired/miyazaki.html

のようです。

・・・言葉もありません。


■3人のサンプル
僕がいう事ではないのですが、圧倒的にサンプル数が少なすぎ、学術的見地において、まだ・・・物を言えるレベルではないと想います。
それでは、ジャーナリストや巷の評論家のパースペクティブを超えていないのではないでしょうか・・・

僕の知人の宗教学者は、少なくとも300人以上の信者・元信者インタヴューを行っており、それは苦労の耐えないものだったそうです。
まず、信頼してもらい、口を開いてもらうまでが大変で、更に深く突っ込んだ話を聞き及ぶには、全神経をすり減らすような思いだった・・・そうです。
しかも、当時は彼ら(そして僕ら)は非常に社会的に危険な存在と認知され、僕だって同じようなものだと認識されていたでしょう・・・

そうした労苦を惜しんでしまっては正確なものは掴めないのではないでしょうか。

僕と、野田さんと、島田先生・・・深い話ができているのかもしれませんが、3人は・・・少なすぎます。圧倒的に。
落胆も早すぎます・・・
学術論文においても、卒論レベルになってしまいます。。。
無論、そんなことはないものと想いますが・・・これからも発言される次元においてはたくさんのサンプルを拾い集めたほうがいいとアドバイスできます。

僕のように近づいて自ら話してくれる人ではなく(・・・そんなの楽ですから)。

先生は、参与観察を行う宗教学者をいささか罵倒しすぎています。。。彼らはとても傷ついていることでしょう。
先生の言説は「フィールドワーク」そのものを「否」といっているに等しく、であるならば、他にどんな有効な手段があるべきかを提示する義務があると想います。

彼らの努力なくしては、先生の参考になさっている本などの情報は皆無だったはずです。

その上で、自分だけ無傷で、業績だけを他者のものを横取りし、論じていると・・・想われたりしませんか?
そういうことを危惧しています。

■最低360のサンプルを扱い象意を導出している占星術
オカルトの世界でも、占星術で鑑定する場合、僕達は360のサンプルを比較検討します。(石川源光氏の提唱があります)
つまり、統計学的な視点を導入しているのです。
僕はサビアン占星術師でもあったので、象意を割り出すとき、星座の一度の単位まで詳細に落とし込んでリーディングします。

オカルト全般の批判からオウムへの類似点をたびたび指摘されているようですが、僕が占星術を任された際には、1500人のサマナのデータを使い検証しています。
つまり、一定の統計的な分析を経由しているのが、占星術です。
そしてその歴史は古くバビロニアの時代にまで遡り、検討されてきたものです。

少なくとも土星までの象意に関して見れば、歴史的な時間をかけて、かなり的確な現象が化体してゆくのです。
2000年以上の観念の詰まった象意だと想ってください。

・オカルトの一種といわれる占星術にでさえ、統計学的なデータの信頼性が熟成されていること。
・学問の地平線でも、観察対象への多角的視野の獲得に関しては360度の視点を注いでください。

■僕がなぜ、神戸震災を当てることができたと想われますか?
僕もよくわかりません。
でも、なぜ、月相や天王星に着目したか・・・なぜあの時期の月食図を使用したか・・・

たまたま当たっただけだと、僕もそう述べたりしますが、それはオカルト規制を自主的にマナーとしてして課しているのであって(常識人として)、
時に、オカルトは、えぐいほど真実に迫ることがあります。
僕はそれを知っています。

自慢話に聞こえるかもしれませんが、サビアン占星術師である松村潔氏には、この業績を絶賛されております。

しかし、僕はこの予言の業績をみずから「まぐれだった」と公表しました。
あの当時、僕がそれを肯定してしまったら、世間を恐怖に陥れたのではないかと想います・・・
だから、僕はそれをしなかったのです。明記しておきます。

学問 対 オカルト・・・
そこを見落としていると、説得力はなくなると想います。

オウムのオカルトはレベルが低かった・・・と想っていらっしゃいますか?
どうでもいいことですけど・・・


http://unkar.org/r/news4plus/1287778770
【引用】
事前に大衆に告げられて、的中した例は18世にウィリアム・リリーの
イギリスの大火災と高橋英利氏の阪神淡路大震災が有名です。
リリーは、犯人に疑われました。史上おびただしい、占星術による予言が
発表されていますが、的中例はコンマ1にも程遠く、信じるに値しません。
インドでは毎年占星術による予言があり惑星直列の年には、大洪水で地球が
滅びると言っていました。毎年はずしてます。ええかげん目を覚ませインド。

ちなみに、占星術師の間では関心を持たれておりますが…僕が採用していた秘伝は、この「ウィリアム・リリー」によるものをアレンジしたものです。

まだその当時開発していたプログラムを僕は持っています。
ですが、使いません。個人的には封印しています。

この領域に関しましては、国家クラスの要望のものだと想います。
オカルトと国家…関係ありますよ…イギリスもアメリカも実運用レベルで政治に活かされています。


■グルジェフについて
僕は現在、グルジェフィアンではありません・・・・伝わっていないようなのでかなしいですが、この掲示板には痕跡が残っているので救われます。
かつては、そうだったと想います。そのベースがあってこそオウムの敷居は低かったのです。
その事については、95年以降から、そこかしこで述べている通りです。村上春樹さんとのインタヴュー記事なども参考にしてください。

あと、何度も述べていますが、エニアグラム性格学は、グルジェフ思想から枝分かれし、独立し、心理学として一定の学問的位置を獲得しております。
その実績による有効度合いは、アメリカでは、FBIやCIAが採用しているほどのものです。

僕のエニアグラム分析に関して、あいつはまだグルジェフィアンだ・・・といわれることは、心外です。
大田さんの解釈は、どうもそのように聞こえます。

それとは、別にもしグルジェフ思想について語るのであるならば、最低限「ベルゼバブの孫への手紙」・・・これを読み込んだ上で、批判なされてはいかがでしょうか?
グノーシス神話よりも古い神話が寓話として語られており、これはたぶんにグルジェフの父が「ギルガメシュ叙事詩」をそらんじており、
子供の頃から彼がそれを、耳にしていたため、その影響があり、壮大な物語になっているのですが、興味ぶかい資料だと想います。

とかくニューエイジで神智学がとりざたされますが、僕はシュタイナーよりもグルジェフに知的好奇心を奪われておりました。
 
 

Re: 山形浩生という人物について

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2012年 4月11日(水)18時16分35秒
編集済
  高橋英利様

書き込みを拝読しました。山形さんのブログには、昨日は私の『グノーシス主義の思想』の書評が掲載され、それに対する回答を書いていたところでした。応答が遅くなり、申し訳ございません。

山形さんに『オウムからの帰還』をお渡ししたのは、率直に申し上げて、それほど深い考えがあったからというわけではありません。高橋さんから、「大田さんが今度対談する方がいれば渡して下さい」と言われたと記憶していましたので、「そうだ、渡しておかなければ」と、私の『グノーシス主義の思想』と合わせて献本したのです。どちらに対しても書評を出して下さるとは、全然思っていませんでした。

直接お会いした山形さんは、とても紳士的で優しい方だったのですが、ご存じのように書評においては、きわめて辛辣な筆致で知られています。特に、書物の欠点と思われる箇所に対しては、殊更にそこをあげつらって一悶着起こすことがありますので(名誉毀損騒動についても知っていました)、余りそういった物言いを真に受けず、それが山形さんの「キャラ」なのだなと、ある程度受け流すことも必要だと思います。

ということで、『オウムからの帰還』に対する山形さんの書評は、私の評価とだいぶ違いますし、余りに言いすぎではないか、と率直に思います。とはいえ他方で、今回の文庫化に際しては多くの読者が、高橋さんが「文庫版へのあとがき」でどのような文章を書くのかということに注目していたのだろうな、とも思います。文庫化以前に、私は高橋さんから直接お話を伺っていましたので、「あとがき」を読んでもそれほど違和感は感じませんでした。しかし、山形さんを含め多くの読者が、サリン事件から約17年を経て高橋さんがどのように変化したのか、どのような仕方で「オウムから帰還」したのかということに注目しており、特に山形さんは、このあとがきの書き方では、「オウムから帰還」して著者がどう変化したのかということが明確には分からないではないか、ということに不満を感じたのではないかと思います。

せっかくの機会ですので、率直かつ具体的に書こうと思います。私は『オウム真理教の精神史』を公刊して以後、幸運なことに、高橋さんの他にも、野田成人さん、島田裕巳さんなど、オウム事件に関与した人々と言葉を交わす機会に恵まれました。そして、これらの方々との会話から多くを教えられたのですが、同時に、実は彼らは「オウム的思考回路」から完全には脱していないのではないか、という深い疑念が芽生えるようにもなりました。具体的に言えば、私は野田さんに対して「革命か戦争かという二元論で考えない方が良いのではないですか」と訴え、島田さんに対して「イニシエーション論は放棄した方が良いのではないですか」と訴え、高橋さんに対して「グルジェフの体系はオウムの思想に通底しているのではないですか」と訴えてきました。しかし、高橋さんを含めこれらの方々は、言葉を交わしている間は私の話を真摯に聞いてくれるのですが、どうもその後、考え方を変えてくれたという様子が見受けられないのです。すべては私の未熟さが原因なのでしょうが、昨年の年末辺りから、私が「すべて徒労なのではないか」という疲労感に苛まれるようになったのは、一つの要因としては、このような経緯があったと思います。

山形さんからの批判に対しては、山形さんの経歴や人格云々といったことを問題にしても余り意味がなく、重要なのは、そこから学び取れる点があるかないか、ということではないでしょうか。山形さんの「神様依存症」という言葉はさすがに言いすぎだ、と私は感じますが、私自身、一人の宗教学者として、神様がいるかいないかと頭のなかで考え続けることが、それ自体として「宗教的」であるとは思いません。私は基本的に、宗教が位置しているのは社会的かつ公共的な次元であると考えていますので、宗教の問題が真に問われるのは、特定の観念がどのような仕方で社会化・公共化され、多くの人々の生を支えるものとなりうるか、という次元においてであると思います。『オウム真理教の精神史』でも述べたように、宗教が個人心理の問題と捉えられたこと、公共性から隔絶された私秘的なものと捉えられたことは、近代という時代の特殊な構造が深く関わっていますので、そういった私秘的次元を「宗教」と捉え続ける限り、オウムの磁場からは完全には抜け出せないのではないか、と私は考えます。

こういう書き方で、返答になっていますでしょうか。山形さんの書評を読んで私が考えたことというのは、大枠として以上の通りです。
 

山形浩生という人物について

 投稿者:高橋英利  投稿日:2012年 4月11日(水)14時59分33秒
  非常に下劣な人物である・・・という僕の認識と、その表現はやはり有効であると思い至りました。
いささか、手厳しいようですが、僕はこの人物の書く文体が、何か雑なだけで教養のない人物であれば、スルーしていました。
気分をちょっと害するくらい。

でも、この低俗な文体にして学歴の高さが妙にアンバランスであり、そこに作為めいたものを嗅ぎ取りました。

調べて見ると、以下のような記述を見つけます。
大田さん、ご存知でしたか?(※事実確認ですが、確実に返答願います。僕は正直迷惑をしておりますので・・・)
(この問題はこじれたりしたら良くないですし、しかもこの警戒心は、当たっていました。)
(僕は、数日間、不眠であり、本日は会社を休んでまで、慎重にこの問題をみつめています)

小谷真理 vs 山形浩生・裁判


http://blog.yuco.net/2001/12/kotani_yamagata/
http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20100511/1272677258

ご存知の上で、僕の本をこの方に贈呈なさったのでしょうか?
これは純粋な書評に値するものか、言いかけていた大田さんの見解をお聞かせ願います。

僕も大田さんのすばらしい功績を称えた上で、この第三者に対する先生の見解をぜひ拝聴して見たいのです。
 

これも一つの交流なのか・・・

 投稿者:高橋英利  投稿日:2012年 4月11日(水)12時34分36秒
編集済
  奇妙な人物であり、知的なのか、それともやさぐれているのかわからない。
でもって、真面目に受け止めていいのか、流すべきなのか…

闘って見ると、相手の持ち味がわかるのか?
それともするりと逃げるだけの輩なのか…

取るに足らないやつだという認識が90%を占め、
残りの10%に、この人物には「味がある」という直感が煌く。

だから、もし僕が失礼な態度で、彼に望んだとしても、彼は意に返さないばかりか
ようやく、相手をするのではないだろうか…
(なぜかそのような想いが直感であり、いつになく乱暴な言説を吐いていても不思議ではない自分に気づく)

大田さんのよに、知的で上品でいながら、ときおりすっと磨かれたナイフで、その人の精神を刺す様を見ていると、刺された方も
貴族のような感じがするのだ。

しかし、この山形という人物は、かなり荒っぽく、例えば、網掛けの編み棒を取り出し、
「こんなもんでも、使いようでは、相手を刺せるぜ・・・」
と無考慮に振りかざす。

でもって、相手にも周囲にも、大胆で虚をつく突っ込みに目を奪わせるのだ。
しかし、この戦法は実に有効だ・・・

大田さんが<思考>センターで戦う華麗な勇者であるならば
山形さんは<本能>センターで戦う荒っぽい武者であり、
僕はといえば、<感情>センターの挑戦者なのだ・・・

この中で、<本能>センターの熟達者が、いかに多彩で優れているのかは、
麻原が証明済みだが、山形という人物、<本能>センターとしてはまったく未熟で香たたない。。。
僕は彼らを<痛いほど>知っているつもりだ。

T5<思考>センター熟練者にして、成長のプロセスで次元を上げ変貌したT8と見る。
かなりの努力家であり、思想家だ。
大田さんが、惚れているとしたら、そんなところだろう。
大田さんは、山形さんに目を留めるのは、流石だ・・・
僕に差し向けた<プレゼント>も実に鮮やかではないか・・・

T8とT8は互いに力量を認め愛ながら<戦争>をする。
T5はその参謀であり、このT8の力量を知っているのだ。
彼は青年期に恐らくT8の知者を見聞きし、学んだはずだ。。。

僕が麻原から学んだことを、彼は他の誰かから学んだのではないかと・・・
僕はT4W5で、ボヘミアン的ロマン主義者・・・

そう、いわば、大田さんが本領発揮して「批判」している人物は、僕ということになる。
綺麗で鮮やかで、切れ味が鋭くて、上品な批判・・・
大田さんは、僕を前にして、直接批判することはためらわれていた・・・僕から近づいたからだ。
たぶん、それは優しさで、僕を傷つけたくなかったから・・・

そして、今回山形さんが、僕に当てられたけれども、この三人の中で、最も知的でクールなのは大田さんだ。
何一つ、嫌味を生じさせずに、クールに相手の懐に入り、精神の奥底に眠っている話題にノックする。

僕は、大田さんの、そんなところが、好きでたまらない。
それにくらべれば、山形さんは、可愛らしく・・・僕に噛み付かれたことに多少戸惑っていたとしても、それは言わば

大田さんの計らいの中で行われた遊戯にすぎないんだろう。
こうした交流の中で、何かが生み出されると・・・オウム問題は1歩進むのだろうか。。。?

やはり、そうは思えない。下劣すぎる。
それが今の僕の見解だ。

真面目に取り合うと、もう掲示板の次元ではないんですけれども。
 

山形浩生の書評について2

 投稿者:高橋英利  投稿日:2012年 4月10日(火)11時55分29秒
編集済
  大田さん

どうもお久しぶりです。先日は、なんか体調崩してあんまし話せなかったですね。もったいなかったです。
なんかあの時は大田さんもあんまり元気なさそうで心配だったけれども、どうやら活発に活躍なさっているようですね。

ところで、今回の流れはそういうことだったのですね。
嫌なヤローであることに変わりはありませんが、興味ぶかい流れですね。ハッとさせられました。

つまり、大田さんを経由して、僕が彼に本を渡しているのですね。確かに僕はあの時2冊贈呈させていただきました。
そして書評を書いていただいており、その書評はお世辞にも論ずるに当たらない「感想文」レベルの粗雑なもので「がっかり」という印象なわけですが、
この反応を惹起させながらも、なお「意味がある」というのが、今回のメッセージなわけですね。

>「いささか残念な事に・・・」
さては、心の底では、僕を評論させたら楽しそうだ・・・とか想っちゃいましたか?(笑)ふふふ
いいでしょう。大田さんだから、許しちゃいます。(笑)

にしても、ハードなボールを渡すよな・・・ふいに。

この罵倒的酷評、ある意味、楽しめるものです。。。
しかも、僕の本の書評ですから、これからまず彼の書評を読み、僕の本を手に取ることでしょう・・・

やりましたね・・・(笑)

大田さんと対談されるクラスの人物だとは、露知らず、低度の低い輩だと想っておりましたが、そうでもなさそうですね。
あまりに稚拙な言説なんで気づきませんでしたが、ある種フランクな文体は読者の心を引きますね。

社会には、想っていることを口にできない人たちがいます。
そうした人は批判的感情の生起がありながら、それを社会に還元できない時、このような人物の言説の代弁により感情を満たされるのです。
彼のファンは多そうですね。

流派の違いこそあれ、これはひとつの技術でしょう。

他流試合をしたことのない僕に、こんな人いるけどやってみる?
と大田さんに紹介された気分・・・

僕は学者さんと深い突っ込んだ話をしてみたかったので、評論家ってあまり話すことがないな・・・というのが率直な気持ちです。
特に「つまみ食い」論者は。
今までのなかで評価していた日本の評論家は、宮崎哲弥さん。。。彼とは、どこかで対談していますが、ものすごくその後深まっている気がします。
仏教の話ができる時点で希少な人なんです。

で、山形さんのことは、ぜんぜん知らなかったのですが、それは僕が無知なだけで、彼は日本の2大評論家といわれるほどの人物なんですね。
彼の何が評価されうるのか、皆目見当がつきませんが、大田さんが評価している時点で深みが何かある方のようですね。
性格は歪んでいそうですけど・・・或いは言語的な資質の類においては無法者といった感じですか。
評論家としては、勲章なのでしょうね・・・人間性を追求している僕とは無縁の人です。

経歴すごいですね・・・そこに惹かれるわけではありませんが、知性のあるかたのようです。
あの文体は挑発的でありながら、あぶりだしですね。的を得ているのかは定かではありませんが。

彼は下劣な評論家ではなく、一本筋が通っている人物であると・・・

なるほど、受け入れましょう。


僕はもしかしたら・・・
誰かに「罵倒」されたかったのかもしれません・・・・
こういう形で訪れるものだったかどうかはわかりません。

僕は、自分のいまいる地点を確認するために、境界線上で闘っていたのです。
ずっとずっと。それは社会に帰属してからも、心の奥底では変わりません。
還俗してから社会で接する方々と精神的な話はしていません。
(する必要がなくなったからではありません、その次元を話せる環境はないのです。)

社会は、効率的な利潤追求が感心なわけですから。
野村総合研究所など、最たるものです。

・神はいるのかいないのか?
・生きることに、いったい何の意味があるのか・・・
・テロリストとなってしまった僕らに社会はどういう目を向けるのか・・・
・すべてを生身で受け止めた場合、僕はそれに耐えうるのか・・・

そうした問いかけが内部にあります。

で、驚くほど繊細にある領域に対しては<誤解されたくない>と想っていることがあり、
そこは聖域と化しているのです。

まさに、そうした意味で、どの宗派に属さずとも、僕は「宗教的」な人間なのでしょう。
それが弱さであるというのならば、その弱さがあることを自覚しています。

日常生活がないわけではありません。
ようやくですが、地に足はついてきています。
でも、それを公表するつもりもありません。
いろいろ傷つきます。

特にあの本は、今のところ僕の「分身」と言っていい程で、僕の肉体が滅び去ろうとも残るでしょう。
この本における言説に対する罵倒は、僕の精神に直結してダメージを与えます。

お二方・・・学識豊かで社会性を獲得されている方からみれば、稚拙で古臭く、要領を得ない生き方なのでしょう。
特に宗教界の大失態の只中にいたわけですから、僕はそうした批判を受け入れています。積極的に


何か馬鹿にされている感じは常に受けるけれども、これが僕の姿なのです。
 

Re: 山形浩生の書評について

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2012年 4月 8日(日)21時46分15秒
  高橋英利様

しばらくご無沙汰しております。新しい書き込みを拝読しました。
山形さんの書評については、私にも責任がありますので、まずは簡単に応答させていただきます。

実は先日、ある雑誌の企画で、山形さんと私の対談が行われたのです。前回高橋さんとお会いした際、『オウムからの帰還』の文庫版を一冊余分にいただいていましたので、良い機会だと思い、山形さんに本をお渡ししました。いささか残念なことに、それがあの書評につながったのだと思います。

ただ今、山形さんのブログを見たところ、高橋さんからのコメントは掲載されており、ブロックしているということではないようです。おそらく「承認式」が採用されているため、コメントの投稿から掲載まで、若干のタイムラグが生じているのだと思います。

『オウム真理教の精神史』にも記載し、お会いした際にもお話ししたように、私自身は、高橋さんの『オウムからの帰還』を高く評価しており、その判断は今もまったく変わりません。おそらく山形さんも、『オウムからの帰還』を一定以上肯定的に評価されていると思います(「非常におもしろい」「ギクリとさせられる」など、共感的な記述もありますので)。

とはいえ山形さんは、「オウムから本当に帰還するとはどういうことか」という問題をさらに踏み込んで提起し、そこからあのような批判的記述が出てきたように思います。山形さんの書評を読んで、私にも考えるところがいくつかありましたが、まずは高橋さん自身は、具体的にはどのようにお考えになったのでしょうか。山形さんのブログへのコメントにしても、こちらの掲示板の書き込みにしても、いささか感情的な応答になっており、批判に対する有効な反論にはなっていないように思います。山形さんの書評にどのような誤解や理解不足があるのか、まずは冷静に応答してみてはいかがでしょうか(何分、かなり挑発的な書評ですので、冷静にというのも難しいかもしれませんが・・・)。

この度の文庫化によって、『オウムからの帰還』も新しい読者を獲得することが想定されますので、単行本の出版の際とはまったく異なる反応が出てくるかもしれません。私としては、そうした感想や批判に対して高橋さんが真摯に応答されることによって、オウムをめぐる議論の新たな足掛かりが得られることを願っています。
 

山形浩生の書評について

 投稿者:高橋英利  投稿日:2012年 4月 8日(日)19時40分13秒
編集済
  山形浩生ていうしょうもないやつが、書評を書いてくれていて、まったくもってはた迷惑なもんだよな。。。

(そういえば、大田さんは、彼に書評を書かれて喜んでいましたね。。。彼のどこが気に入ってるのですか?)

実に卑劣なやつで、勝手気ままな書評なる駄文を公表しておきながら、僕のコメントは載せないんだよね・・・
ガードかけてるのかな。。。
だから、僕も「反論」しておかないといけないので、ここに書かせてもらいますね。大田さん仲よさそうだし、彼ここを訪れるかもしれないので。

あ、ちょっと精神的にすさんでるかな・・・僕は、たぶん。

そういえば、吉本隆明さんが亡くなられましたね・・・
彼には、「転向」という言葉で昔、評論されていたっけな。。。当時
実を言うと、意味がほとんど解らぬままキョトンとしていたのだけれど、少し気になる言葉だった。
彼は、その言葉を決して悪い意味で使ってはいなかったようなんだけど、僕の行動が「90度の転向者」行為だとと言っていた。

こういう評論だと、されたほうも「グッ」と引き締まる思いなんですけどね。

まあ、僕にとっては自分の<精神をかけて>いたところが「魔窟」だったんだ。だからそうならざるを得ないよ。
彼に言わせれば、それは「稀な」ことのようだけれどね。

脱会した当時に、ふんぞり返って180度の批判とかはしなかったし(ああ、それをやったらそれこそ愚劣だぜ)、
かといってかつての教団の行いには、世の中の人がまだ気づけないほどの闇が潜んでいることにいち早く気づいてしまったからこそ、内在的な不穏な雰囲気を追及していた。

山形ってやつに言わせれば、それも売名行為にみえるそうだね。

95年4月頃、まだ出たての頃は教祖の批判までは勇気がなくて、できなくって、
少し時間をかけて考えた末、問題の根源に教祖は確かにいたし、その事を度外視して観察しても
何も見えてこない・・・てことに気づいて、展開していった。

おおかた、伝わったはずだ。伝わったと想っている。

時を経て、実に「くだらない評論」を書く人物が現れた。
そういう輩は一定数いるだろうな・・・と想っていたし、別に不思議なことではない。

僕はある意味、「晒し者」だったし、これはこの名前がある限り、続くんだ。これからもずっと。<受け入れて>いるよ。

あのおぞましい事件に関して言えば、
自由に人が判断するだけの材料は、僕の瞳を通じてみてきたものを提供することで貢献できたと想っている。

期せずして、世の中の関心のあったであろうことは、生でこの瞳でみてきたから。

山形浩生・・・君のような「愚劣な」人間にだけはなりたくなくってね。。。

人を常に高みにたって、評論する・・・
書評?笑わせるなよ。。。そんなの小学生の「感想文」レベルさ・・・
言説の新鮮さはブログの域にも達せず、2チャンネルかTwitterレベルの「無配慮で」「いびつな」言説だ。

それだけの知恵と道徳が自分には備わっていると、勘違いし、(死ぬまでには気づいたほうがいいだろうな・・・)
われこそは、正義を振りかざし、正そうとする・・・

でもって、なんだい、神を信じる人や、何らかの霊的な信奉者を、時代遅れの代物のごとく
(・・・だってそうじゃないか。。。て言うんだろうな(笑))
批判する類の人間は、我こそは善良なる現代の先端をいく知識人だとでも自認しているのかい・・・

ああ、目上の教育者ぶってるけど、いったいどのくらいの「精神年齢」なんだろうかね・・・
「ちゃんとおうちに帰るまでが「帰還」ですからね」・・・

だってさ・・・
あなた、僕の「パパ」ですか?
 

ヤマギシ会について

 投稿者:サニー  投稿日:2012年 3月29日(木)07時32分10秒
  たいしたことが書けないので投稿にのせないで下さい。
私は以前から自分を捨てろという宗教はカルト宗教であり
自分を捨てる人は人も捨てるひとだ、と書いてきました。
自分を捨てる人と言えば人格異常者でありその元祖のカルト陰陽宗教の大国主自身であり
それが作ったオウム真理教=創価学会=モルモン教=ヤマギシ会等々と繋がります。
カルト宗教が操るyahoo!japanに投稿していたため人目に触れる事なく
削除されたかもしれずやはり元をたぐるとそういうことをしているのは大国主と言う事になります。
大国主=エロヒム=シヴァと理解しています。
私のブログです。またも大国主によって隠されているかもしれません。苦笑
http://cloudbe13.blogspot.com/
http://outfromu.blog9.fc2.com/
 

RE: 宗教と呪術、その他

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2012年 2月26日(日)15時34分2秒
  大田さん

どうも、こんにちは。
しばらく海外に出張しており、返事が遅れました。

文庫本『オウムからの帰還』は、今度お会いする機会がありましたら、是非贈呈させてください。
僕はまだ先生のようにシャープに言説を唱えることはできないのがもどかしいですが。

ところで、いくつか重要な論点も出てまいりました。

■「呪術」と「宗教」の違いに関して
当時活躍していた宗教学者の方々が全く触れていなかったとは思いませんが、充分に深められてもいなかったテーマでもあります。
ぜひ、ここら辺の分析も披露していただけると助かります。

>こうした「宗教」と「呪術」の二分法を前提とするなら、麻原彰晃やグルジェフ、あるいは中沢新一や内田樹といった一部の知識人たちが語っていることは、実は「宗教的真理」についてではなく、主に「呪術的真理」についてではないかと考えられます。

これはでも、大胆な指摘ですね。テンポとしては引き込まれるのですが…
しかし、大田さんがそこまでおっしゃるのであれば、この違いを明確にした上で、見落とされていたであろう「呪術的真理」とそのメカニズムを解体していかなければならないでしょう。そしてその上の討論として学術的にも精査されうるものと発展するものであれば有意義だと感じますが、いささかこの刺激的な言説も、早すぎはしないか?というのが僕の印象です。
このテーマを語るのであれば、もう少し広く学術的な場でも展開していただきたいです。

それに、ここに挙がっている人たちの思想を十派一からげに纏め上げ批判する姿勢には賛同できません。大田さんはどうもそういう傾向がありますね…
(それは外野の第三者にとっては楽しいめるものかもしれませんが、僕はちょっとついていけません。)
僕はそこまで彼らの思想に通じておりませんので、軽はずみなことは言えません。
それは仮にも人生をかけて練り上げた諸思想家の方々に、粗野で短絡的なくくりすぎはしないか?と感じます。
大田さんによってステロタイプに纏め上げられた説明は、それによって簡略化されて解り易くなる反面、細部のディテールを大胆にそぎ落とし、誤謬も生み出してしまう恐れを感じるのです。老婆心ながらも。

…とはいえ、この「呪術的」な側面のあぶり出しは重要なことだと思います。
ひとつ僕のほうから上げられる点は、「名前」です。

オウムにはホーリーネームの制度があり、教祖の霊的視点と感性で弟子に新たな名前が付与されたのです。
仏教にある「改名」と似た意味合いをベースにしているのですが、そのスタイルは先述のO(ラジニーシ
の団体が使っていた手法の模倣であり、もっと「今的」であり、信者にも「受けていた」と想われます。
日本ではなかなかないスタイルで、意外性がありました。
その横文字の新たな名前に、どこか「本当に生まれ変わった」感じを持たせることに成功したのです。

現世の名前すら「捨て」させ、教祖が名付け親となって「生まれ変わる」儀式…それがオウムのホーリーネームであり、その影響力は精神的に計り知れない大きさを持ち合わせていたと推測できます。

信者は、その意味で「教祖」に名づけられた名前によって「呪われて」おり、その強さは計り知れないほど大きかったと言えるでしょう。

ちなみに、僕はそれを与えられていない点において、かろうじてその「呪い」から逃れていたと言えるのではないかと。
その代わり、出家前、出家後、脱会後を通じての一貫した僕の「高橋英利」という名前は、重くのしかかっています。
自分で言うのもなんですが、僕は自分の名前に一時期つぶれそうでした。

僕の意見を述べます。
「宗教」と「呪術」の二分法を前提にしては、いけないと思います。

この時点で行われる「排除」には有意義な発見はありません。
その二つはむしろ「混合」していたと言えるでしょう。

事実、カルトと宗教の違いによる、既存宗教の防御的な姿勢が当時さかんだったと思います。
その上で、カルトの行動的結実をもって、違いを語りたい気持ちは充分に分かるのですが、入り口は同じ性質のものでしょう。
それを理解した上で、もう少し内部に迫りたい…17年の歳月が経った今、それが少しはできるのではないかと想うのです。

呪術的性質も捉えた上で、宗教的動機が厳然としてあったであろうことを度外視すれば、その視点はひどく視野が狭いものとなってしまうと想われます。

そして、その点において、麻原を精神病で単なる凶悪犯という視点で捉えてしまうことに危険性を感じます。

■麻原とグルジェフ
>結論としましては、オウム真理教の教義や麻原彰晃の人格をグルジェフの体系で分析するということよりは、両者をともに一種の「呪術の体系」と見なし、相互の共通性や違いを比較分析してみる方が有効なのでは、というのが、私の考えになります。

了解です。僕も別に特殊な体系でのみ観察することは本意ではないので、大田さんのアプローチに期待いたします。
じっくり行っていただければ…と思います。

■麻原彰晃・村井秀夫・上祐史浩の関係について
ここらへんは、当時の三者をよく知る人物などから情報を引き出したほうがいいように思います。
僕はかろうじて、この三者を観察できる位置にいたので、その地点から見えていながら世間では表現されていない点をご紹介させていただきました。

■文庫本「オウムからの帰還」あとがきの挿絵
自分で言うのもなんですが、歴史的に貴重な資料になると想っています。
一枚目の麻原は、麻原初公判の時、彼が着席した直後に見せた表情になります。
ここから読み取れるメッセージは、ロゴスを超えており、僕はどんな表現も的確でない…ものを感じます。

当時、この裁判の傍聴も狭き門でしたが、この傍聴における僕の法廷画は、世に出ませんでした。
僕がかつて信者だった事や、裁判当時において脱会後の人間であることを踏まえた上で、この絵が適当でないと判断されたのでしょうが、僕は、この「世に出すことのできなかった絵」を公表すべきだと思うに至りました。

計4枚の絵を載せましたが、麻原の変遷が読み取っていただけると思います。
 

宗教と呪術、その他

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2012年 2月22日(水)11時48分5秒
  高橋英利様

書き込みいただき有難うございます。どうお答えするべきか、なかなか言葉が見つからないところもありますが、簡単にコメントさせていただきます。

■「宗教」と「呪術」の区別について

前回の繰り返しになりますが、オウム真理教にせよグルジェフにせよ、その体系は、「宗教」と言うよりは、むしろ「呪術」と呼ぶべきなのだろうと思います。初期の宗教学(フレイザーやデュルケーム等)では、「宗教」と「呪術」という、似て非なる二つの領域が存在することが重要視されていたのですが、その後の宗教学では、このテーマを十分に探求してこなかったところがあるように思います。

デュルケームは宗教を「社会の統合を成立させるための集合的表象」と定義しています。すなわち宗教とは、「社会のメンバー全員にとっての公的真理を表すもの」と言い換えることができるでしょう。

宗教はこのようにして、社会統治の主要な手段として一般に用いられるわけですが、しかしながらこの方式は、いつでもどこでも万能というわけではありません。「誰にとっても当てはまる真理」というものを拒否する人間、それでは満足できない人間が、社会のなかには常に生み出されてしまうからです。それは、何らかの理由や原因によって社会から疎外され、社会の呼び声に応答しなくなった人間であり、より端的に言えば、何らかの仕方で「精神を病んでしまった」人間、ということになります。

こうした人々は、現状の社会に対する根源的な違和感や不満を抱えているわけですから、「社会のメンバー全員に当てはまる真理」という仕方の呼びかけには応答しようとしないわけです。では、どうするか。別の仕方で呼びかけるしかない、ということになります。すなわち、「社会には隠されている真理を、私が君だけに教えてあげよう」という種類の呼びかけを行うのです。大ざっぱに言えば私は、こうして展開される「私秘的な真理」の体系が、「呪術」と呼ばれる領域を形成していると考えます。

こうした「宗教」と「呪術」の二分法を前提とするなら、麻原彰晃やグルジェフ、あるいは中沢新一や内田樹といった一部の知識人たちが語っていることは、実は「宗教的真理」についてではなく、主に「呪術的真理」についてではないかと考えられます。周知のように近代社会は、大規模で複雑なシステムによって成り立っており、そこからはじき出される人間、疎外される人間が絶えず生み出されていきますから、「呪術的真理の語り」というものは、その社会において常に一定の大衆的ニーズを集めるということになります。こうして、さまざまな宗教的セクト、ニューエイジや精神世界といった流行現象、サブカルチャーの諸領域において、カリスマ性を帯びた「呪術師」が登場し、その周囲に「彼こそは秘められた真理を知っている人間だ」(まさに「知っていると想定される主体」です)と考える信奉者たちが集う、という現象が繰り返されることになります。

しかし、ここで往々にして見過ごされるのは、こうしたカリスマたちが語っているのは、実は私秘的領域にしか通用しない「呪術的真理」に過ぎず、その論理は公共的領域には通用しない、ということではないかと思われます。さまざまなカリスマたちは、自らの力によって人々を訓育・領導できることに自信をつけ、しばしば政治の領域に関与しようとしますが、ほぼ例外なくそこで躓き、纏っていたオーラを雲散霧消させる、平たく言えば、「化けの皮が剥がれてしまう」ことになります。すなわち、彼の「真理」が通用していたのは、あくまで閉鎖的共同体の内部のみであり、社会的公共性の領域には通用しないことが露わになってしまうのです。

・・・ということで、何を書いているのか良く分からなくなってきましたが、結論としましては、オウム真理教の教義や麻原彰晃の人格をグルジェフの体系で分析するということよりは、両者をともに一種の「呪術の体系」と見なし、相互の共通性や違いを比較分析してみる方が有効なのでは、というのが、私の考えになります。

■麻原彰晃・村井秀夫・上祐史浩の関係について

オウムの幹部同士の関係については、部外者である私にはうまく想像できないところがありますが、高橋さんの仰ることは確かに興味深いですね。教えていただいた当時のテレビ番組も、村井さんと上祐さんが水面下で敵対し合っているという視点から見ると、細かい仕草や挙動に隠された意味が分かるような気がします。

しかし全体として言えば、私には、上記の三者がそれぞれ別のベクトルを持っているようには思えないのです。言わば三人とも、かつてオカルト雑誌『ムー』の愛読者であったという意味で「ムーの子供たち」であり、そこに書かれていた陰謀論・超古代史・疑似科学などをかなり素朴に信じ込んでいたのではないでしょうか。そして、オウム末期の運動をリードしたのが、主に疑似科学やマッドサイエンスの方向性であり、この点で村井さんは、その能力において他の幹部より秀でて(?)いました。そして、上祐さんを含む他の幹部たちは、そうした村井さんに対して、嫉妬や危惧の入り混じった複雑な感情を抱いていたのでは、というのが、私の想像するところです。

高橋さんのご著書『オウムからの帰還』を読み、末期のオウム教団において村井さんの果たした役割がとても大きかったということが良く分かりました。その意味で言えば、村井さんが刺殺されてしまったことは、麻原彰晃が法廷で何も語らなくなったこと以上に、「オウム事件の真相」を闇の中に隠してしまったのかもしれません。

(*『オウムからの帰還』は、最近、文庫化されたようですね。喜ばしいことだと思います。「文庫版あとがき」を拝読したいので、私も近いうちに手に取ってみます。)
 

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