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『鏡像理論』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月17日(土)20時18分59秒
  大田さんと言えば「鏡像理論」が代表作と言えるのかもしれない。それと、やはりラカンの功績が素晴らしいからだろう。
確かに著書『グノーシス主義』における「水面」に関する扱いは繊細な視点が披露されており、一読の価値があると想う。
非常に興味深いテーマなので、今後も考察していきたいテーマだが、今回は、これを違った視点から見ていきたい。

僕にとって、『鏡像』と言えば、やはりライナー・マリア・リルケの詩からそのイメージを膨らませてゆくことになる。

----
「鏡像」三篇 / ライナー・マリア・リルケ


ああ ものおじした鏡像の美しい輝きよ
何処にも存続することができないので なんとそれが輝いていることだろう
それは鎮めるのだ 女達の自分自身への渇きを
彼女達にとって なんと世界が鏡の壁で張りめぐらされていることだろう

まるで私達の本質からひそかに流れ出でたものの中へ落ちていくように
私達男は、鏡の輝きの中へ落ちてゆくのに

彼女達は自分の本質をそこに見出して それを読み取っている
彼女達は二重に存在していなければならないのだ
そうすれば彼女達はまったきものになる

ああ 歩み寄るがいい 恋人よ 澄んだ鏡の前に
そうすればお前は存在するのだ
お前とお前との間に
緊張がよみがえり そのなかの名状しがたいものを
測る尺度が新しく生まれ出でる

お前の鏡像だけ、お前が増えて
なんとお前は豊かなことだろう
お前に向かってするお前の肯定が お前の髪の毛 お前の頬を
お前のために是認するのだ
そのように自分を受け取ることに満たされて
お前の眼はくるめき 見比べながら暗がってゆく

----

一篇だけを朗読してみても、彼の視点は美しい対象者に注がれながらも、彼の思推を見出すことができる。
ここで「鏡像」を覗き込む行為自体を「過ち」とみなすのはつまらないもので、勇み足。
僕は決してそんなことをしたくはない。

ただ、彼の詩に登場する主体である「彼女」は自身の「存在」の確認のために、「鏡」を使用しているのであり、
それはひとつの選択として落ち着いた行為ではなく、半ば切羽詰った「渇き」によってなされたことが指摘されている。

リルケを知らない人は彼を単なる「詩人」と解釈してしまいがちだが、彼の零された言葉にはじっくりと煮詰め上げた哲学が存在している。。。彼は思推の末に、ロゴスをそぎ落としていった形而上的な哲学者と見たほうが妥当だろう…
僕は、彼の詩に散りばめられた、選び抜かれた言葉(そう、言葉の末端である「葉」として)を注意深く読み解く必然性を常に感じる。

そしてまた、彼女達にとっての「鏡」とは、自己の存在の確認作業の他に、既に自己愛への渇望も含まれており、かつ、それが彼女達の「周囲に張りめぐらされている」点で、ただならぬ影響力を秘めていることを知る事になる。
外見の写像へのリアル感は、恐ろしいほどで、実際に女達は、自分が美しくなければならないと、幼少の頃から、半ば脅迫されて存在しているのであり、それは親や兄弟や教師の教育ではなく、本質的な「気づき」だろう。

その上で、残酷にも彼女達は、こう思うに至るのだ。
「可愛くなければ、綺麗でなければ、私は愛されず…存在しない。」とまで…

実際に、そこまで正直に口に出して告白した女性にはさすがにお目にかかってはいないが、
ほぼこの事実と同じ内容の事を僕は女性から告白されたことがある。

この女性の鏡像に対する奥底に潜んでいる喜びと苦悩に関しては、出家した女性から教わったものだ。

女性で「出家」願望があり、解脱願望を生じさせた彼らが、まず闘っていたものは、知らずに己自身の周りに張りめぐらされた、この鏡像だったと言える。それは社会的な構造でもあり、もっと原初の構造が雛形としてあったのだ。

そこから逃げ出すには、もはや、鏡を壊すか、鏡の中の自分を輝かせるのかどちらかの選択すじしかなくなっていく。

もちろん、社会は幾分救われており、曖昧だ…
幸いなことに、美は形状のみでないことを、彼らはのちに学び、鏡に映ることのない美を発見していくことになる。。。

しかし、ひとたび、鏡像を虚像とみなしはじめるや、彼らは、それを忌み嫌うようになってゆくのだ。

これが「尼さん」の姿だ。
しかし、自己像を拒絶した彼女達は、自己の内部で克服できた世界の虚像を、実は「鏡像」=「他の人から見たリアルな似像」とまで発展しているところまでは、舵取りできないのだ。
そこで、この他をどうしても誘惑しかねない「美」というのは悲劇的なものになっていく。

美を楽しめるうちは、喜びだ。
しかし、美を拒絶し始めた彼女達にとっては、それは苦しみに変貌するのだ。

やがて、彼女達の多くは、敗北していく。
自分の中の「美」を正直に、対等に扱わない限り、問題が解決しないことを知るのだ。

それは、鏡像に囲まれた彼らが、「増殖」しはじめることまでをリルケは見抜いており、更に、その「コピーされた鏡像」の光量が少しづつ失われていき、徐々に暗くなってゆくことまでも示唆している。

この詩をはじめて読んだときの驚きは、僕の場合、ラカンを凌いだのだ。
 
 

返答が遅くなりそうです

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年12月15日(木)19時49分45秒
  高橋英利様

掲示板への書き込みをありがとうございます。
私も色々と返答したいことがあるのですが、年末に向けて珍しく仕事が嵩んでおり、ゆっくりと文章を書く余裕が見つからない状態です。申し訳ありません。
新しい論題がありましたら、どうぞ遠慮なく書き込んでいただければ幸いです。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

T8の人々

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月14日(水)23時55分53秒
  大田さん

独りで思考をめぐらせています…また少し交流させてください。
この前お話した、行動心理学分析~エニアグラム~の話題です。

現在巷で発展しているものの基礎になる概念から、歴史上のT8の活動を観察してみたいと想います。

エニアグラムの起源としてグルジェフに立ち返ると、彼の基本講義の中に3つのセンターについては、こう説明が補足されている。

「頭のセンター」と「心のセンター」と「体のセンター」というふうに三つのセンターを分けるとき、このうち「体のセンター」は「本能・運動・性センター」とも呼ばれる。
それ自体が三つのセンターの複合体であるとされている。

ここで所謂「性格分析エニアグラム」でいう「本能センター」の性質と役割について、考察してみたい。

Gの体センターを、そのまま分類として当てはめられるだろうか?
一番の関心は、
・そのエネルギーをどのように導き出し、
・どのように加工し、
・どのように変換し、
・どのように使っているのか?
という点。

どのように使っているのか?に関しては、今では非常に多くのデータが揃っている。
日々、彼らが生きる中で、自然に発露し、足跡を残してくれている。

もうひとつの関心がある。
それは、この無尽蔵とも言える本能センターのエネルギーを使いこなせるタイプの人たちに対して、
思考センターや感情センターのタイプの人たちは、圧倒的にエネルギーの点で劣っているという実感。

あるとき思考や感情で勝負して勝てる相手ではないのだということを僕は悟った。

では、彼らのように、本能センターを目覚めさせることはできないのだろうか・・・?
たとえ、普段は眠ってしまっている本能センターだとしても、それを回転させることができないのだろうか?

彼らが本能センターのエネルギーを変換し、感情や思考の活動をさせるとき、
その源のエネルギーが大きいために、幾分荒削りである印象が強いが、
それは変換ができ、
しかも「持続力」が圧倒的だ。

思考センターのテリトリーとも言える領域に、思考センター以上の成果を示したり、
感情センターのテリトリーとも言えるような領域に、感情センター以上の成果を示すことがある。

ただこの神秘的な「エネルギーの導出過程」については、
彼らが無意識で行っているそのメカニズムを僕達が「意識的に」アプローチすることで、
目覚めていない本能センターのエンジンを回転させる事ができるのではないだろうか・・・?

Gなどの修行ではいろいろな方面から開発にチャレンジしていた。

G本能センターが性質上「自己保存」的な内向的な方向であるのに対し(T9が象徴的)、
G運動センターは、そのありあまるエネルギーを外部に表出したいという欲求があり(T1)、
G性センターは、いよいよ外向的になり、外部へさらに刺激的に作用することをもくろみ、
外部の世界基準を壊しながら自らの拠点を生み出している。(T8)

生と死の欲求を製造し、貯めて貯めて、発露する。

その強烈な個性が、神話の中で息づいている神々に見出され、人間の世界でも
歴史を紐解けば、なんと多くの足跡をT8が残していることだろうか・・・

原初の人間は、エニアグラムの世界では、T9と言われている。
僕は先生の本を読み、ヤルダヴァオートは、グノーシス神話上、最初のT8だと感じている。

彼らは、本来的に、外的発露に対して「リミッター」というものを持ち合わせていない…
 

『愛と終末と神話の世界について』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月12日(月)19時45分57秒
  大田さん
どうもです。また少し交流させてください。

僕がこの大田さんの研究室の掲示板に訪れるのは、大田さんの鋭利な分析をお聞きしたいという理由だけでなく、実存感覚を得ることのできなかった僕の最も危険だった頃である20歳~27歳あたりの学生さんを相手に先生が講話をする立場であるのもその理由だと思います。

伝えたい人は、精神的に無防備で、危険な人…そして無自覚な人

それはサブカルチャーの中では遊戯として捉えることが可能だけれども、社会的希薄性を獲得するために「リアリティ」を渇望しだして活動に移る時、たくさんの<魔の入り口>が潜んでいると思うからなんです。

僕は自分自身の閉じこもった反省ではなく、この虚構に満ちながらも現象化してしまった黙示録的終末観の悪夢(それはでも行き過ぎない点においてはむしろ救いだった)を、同時代の人々と共有しながらも考察していけたらと思っています。

でも…難しいテーマだと想います。
で、学生さんたちには、高校受験を終えた後の思考活動においては、手に負えないくらい化け物的な<思想>それが宗教哲学にはあると想うのです。おそらく学部学生の数年目にはニーチェの哲学ですら驚愕を覚えて、その魔を取り除くことろまではいけないと想います。ニューエイジで言えば、僕は前段にグルジェフの洗礼を受けてしまっているために、麻原の毒性に…実は慣れていたのだと思います。あの人はあの人で異端の巨匠だと感じていますが…危険な香りは漂います。

で、もともと家系が宗教的な背景(新興宗教ではないほう)のある方も多いと想います。
様々な宗教をお持ちの方がおられると想いますが、仏教、キリスト教、イスラム教などそれぞれに終末思想が存在しており、実際の諸生活にはどのくらいの影を落としているのか…それは定かではありませんが、少なくとも宗教に触れている人や現在のサブカルチャーに興味を抱いた若者には、終末という「爆弾」があることを認知すると想います。新興宗教でなくとも。

そこで…このテーマがいかに恐ろしくとも、避けがたいテーマであると感じるのです。特に近代は。
しかし、宗教=終末ではないですし、そこらへんの視野を広げていきたいです。キリスト教の最大の教えは「愛の教え」だと想うので、それを取り上げてみたくなりました。

で、その意味では、「愛の教え」には期待できるものがあると思います。(少なくとも戒めや罰より)
でも、いまやあらゆる事柄に繊細に注意深い視点で挑まなければいけないと感じており、手放しで「愛を賛美する」ことはできなくなっていますが、愛の没入行為自体がロマン主義的ではあるため、大田さんの分析では、そこに何らかの「罠」に似た落とし穴を既に発見なさっているのかもしれません。

「自己と他者の合一」を求める行為の中に、自己の虚像を錯覚する悲愴な物語がナルキッソスだとすれば、
「自己と他者の区別がなくなる境地があるのだ」とする悟りの境地を紹介したくなります。ここにも「闇」が潜んでいますか…?
しかも、実際には<宇宙はひとつ>というヴァーチャルとはいえ体感的な帰結(これは僕自身にもある感覚ですが宗教や精神世界を探求している人には一般に行き着く感覚だと思います…)を「ニューエイジ的なもの」と片付けるのは早計でしょう。

グノーシス主義的に言うと、ソフィアの抱いた最初の疑問、希望、願い…それが「父との合一」であり、それが拒絶されてしまったこと…そこから可視的宇宙が形成された…とするあたり、そのあたりから、始まっている原初のものです。

もはや、これは光や闇という二元論的な視点で捉える範疇ではなく、
その「宇宙のはじまり」が「宇宙の摂理」そのものではないのか…と思うのです。

これを「ソフィアの過ち」と捉えるのがグノーシス主義の代表的な見解となっているのでしょうか。。。
だとしたらそれは「宇宙は始まってしまったこと自体が誤りだった」と言っているのと同じことだと思います。
 

Re: 『隣人愛と自己愛について』

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年12月12日(月)00時27分54秒
  高橋英利様
書き込みを有難うございます。私は全然「先生」などではなく、ただの「ひきこもり」に過ぎませんので、どうぞ大田さんとお呼びいただければ幸いです。

「隣人愛と自己愛」について、何か適切な返答をしたいと思い、色々と考えあぐねたのですが、結果として何も思い付きませんでした。「愛」という概念が「自己愛」の延長線上にあり、ナルキッソスの神話に描かれているように、そこに自己と他者の溶融や混同という危険性が潜んでいることを指摘したのは、精神分析の(あるいはグノーシス主義の)鋭利な洞察の一つだと思います。私もまた、愛という概念に、魅力よりも危うさを感じ取ってしまう人間の一人なのかもしれません。

かつて私が好んで読んでいた作家の一人に、カート・ヴォネガットという人物がいます。彼もまた、愛という概念を敬遠する人間の一人であり、うろ覚えなのですが、「愛を少し減らし、その分思いやりを少し増やせば、世界は今より少し良くなる」という趣旨の発言があったと記憶しています。「愛」という概念に自他の混同の危険性が潜んでいるのに対して、「思いやり」というのは、自己と他者があくまで別の人間であること、「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるかどうか分からないことを前提とした上で、相手のことを少し気に掛ける、という行為なのだと思います。『スラップスティック』という小説などとても面白かったので、機会があればぜひ読んでみて下さい。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

『隣人愛と自己愛について』

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年12月 6日(火)17時10分46秒
  大田先生
というのはもしかしたら嫌かもしれない・・・
太田さん・・・と呼んだほうがよろしいでしょうか。

ところで、「自己愛」に関する探求と洞察は、素晴らしいと思います。
心理学的な面のみならず、神話の世界で発生した契機まで触れられているので。

ところで、そこに直球で問いかけるほどのテーマではないのですが、「関わってくる」なという実感のあるテーマがあります。
もちろん宗教的なテーマであり、所謂、一般的なクリスチャンであれば「異論すらさしはさまない点」になるのですが、掘り下げていきたいなとおもいます。

 「自己愛」を発展させて「隣人愛」というのが、信仰者のテーマとなってきます。

これをそのまま読んで、平和に暮らしていたい心境がありますが、ここではそれをあえて崩して、切り込んで生きたいと思っています。

【引用はじめ】
 カラマゾフの兄弟  ドストエフスキー 四 謀叛 (むほん)

「僕は一つおまえに白状しなければならないんだよ」とイワンは話しだした、「いったい、どうして自分の隣人を愛することができるのやら、僕にはどうにも合点がいかないんだ。僕の考えでは隣人であればこそ愛することができないところを、遠きものなら愛し得ると思うんだがな。僕はいつか何か物の本で、『恵み深きヨアン』(ある一人の聖者なのさ)の伝記を読んだことがあるんだ。なんでも一人の旅人が餓え凍(こご)えてやって来て、暖めてくれと頼んだものだから、この聖者は旅人を自分の寝床へ入れて抱きしめながら、何か恐ろしい病気で腐れかかって、なんともいえぬいやな臭いのする口へ、息を吹きかけてやったというのだ。でも、聖者がそんなことをしたというのは痩せ我慢からだよ、偽りの感激のためだよ、義務観念に強制された愛からだよ、自分で自分に課した苦行のためだよ。誰かある一人の人間を愛するためには、その相手に身を隠していてもらわなくちゃだめだ。ちょっとでも顔をのぞけられたら、愛もそれきりおじゃんになってしまうのさ」
 「このことはゾシマ長老がよく話しておられましたよ」とアリョーシャが口を入れた、「長老様もやっぱり、人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとっては、時おり愛の障害になると言っておられました。しかし、人間性の中には実際、多くの愛が含まれていて、ほとんどキリストの愛に等しいようなものさえありますよ。それは僕自身だって知っていますよ。イワン……」

【引用終わり】

神の似姿として人をを神は作られ、また神話では、ナルキッソスが他ならぬ自分自身を水面で見つめてしまうことで、落とし穴が潜んでいるのだ・・・という事が言われています。

先生はそもそも「水面」そのもの魔性にまで言及しておられたと思いますが、この「形象としての」顔を「認知」することで生じる、一般的に許された「愛」という認識は、実際には「キリストの愛」とはむしろかけ離れてしまうのだ…

ということが、ここで語られています。
イワンに言わせたこの言葉は真実をついていますし、ゾシマ長老の言葉もサスガだな…と僕は思っています。

人は、気配や香りのようなもので愛すべきだと…僕は思っています。
 

終末論とオウムの問題3

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月27日(日)15時06分33秒
  ><イエス本人が「神の国の到来」を待ち望んでいた>…ということは、世界宗教に発展したキリスト教が世界に「終末思想」を機能させる土台に
>一役買っている結果となっている…ということです。逆説的な結果を。その影響力は軽くはないでしょう。

はい、仰るとおりだと思います。『ヨハネ黙示録』の冒頭には、次のように記されています。

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」

極論を言えば、この文章を素直に読んで得られる結論は、次の二つであると思われます。

(1)「すぐにも起こる」と書かれていることが約二千年経っても起こらないのだから、聖書は誤り。キリスト教信仰も誤り。→反キリスト教
(2)聖書に「すぐにも起こる」と書いてあるのだから、すぐ起こるはず。現代社会のさまざまな事件は、終末を予兆している。→原理主義、終末カルト

グーグルで「終末カルト」という言葉で検索してみれば、オウム真理教のみならず、それらの存在が世界中でどれだけの惨劇を引き起こし続けているかということが、よく分かると思います。世界最大の宗教にこうした危険要素が内在しており、明確な回答もないまま放置されているわけですから、確かに大きな問題ですよね。キリスト教徒ではない第三者の立場から言えば、さまざまな宗派を含むキリスト教徒たちが集まって「公会議」を開き、終末論の是非についてあらためて議論した方が良いと思うのですが・・・それも難しいのでしょう。

キリスト教徒の人口が少ない日本において、なぜオウムのような極端な終末カルトが現れたかということについて、ご存じのようにリフトン教授は、第二次大戦における日本人の被爆体験が大きな影響を与えている、と論じています(私も『オウム真理教の精神史』の281頁で、この問題に触れました)。ちなみに、麻原がもっとも初期に提示した予言は、2006年までに核戦争の第一段階が終わり、日本は再び「死の灰」に包まれるだろう、というものでした。この予言はもちろん外れましたが、2011年現在、日本は福島原発からの「死の灰」に脅かされており、おそらくあまり目立たないレベルで、終末論的発想が活気づいているのではないかと想像します。こうした動きに対抗するためにも、キリスト教を始めとするさまざまな宗教に内在する終末論の問題とはどのようなものか、ひいてはオウムとは何だったのかということを、社会がより広く認知しておくべきだと思います。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

RES:終末論とオウムの問題2

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月24日(木)21時08分25秒
編集済
  大田先生

コメントありがとうございます。

>引用はじめ
越智道雄氏の『〈終末思想〉はなぜ生まれてくるのか──ハルマゲドンを待ち望む人々』があります。オウム事件を受けて緊急出版されたためか、あまり構成が練られていないところがあるのですが、参考になる書物だと思います。とはいえ、私が一読した限りでは、オウム全体を「キリスト教終末論」の観点のみから説明しようというのは、やはり無理があるという印象を受けました。
>引用終わり

僕もその本は当時手にしましたが、今ちょっと詳しくは思い出せません。僕は出家した時期と脱会後数年経った時期に、一度全部書物の類を失っているので、またどこかで購入してみないといけません…

ところで、普段から「終末」のことばかり考えている人間ではないのですが(そう思われてしまっているかも…)、せっかく先生とお話できる機会ではあるので、できるだけ珠玉のテーマで語り合いたいと想っており、その中の一つです。

95年か96年頃、橋爪大三郎先生(とはTVで一度しか面識がないです)や大澤真幸先生ともお話させて頂いた経験があるのですが、そこでも僕はさかんに「終末観」について熱く議論を交わしていたような記憶がおぼろげにあります。(笑)
村上春樹さんとの対談においては、かなり「冷めきった」視点で、かわされ、奇異な視線で見つめられました。
ロバート・リフトンさんとは、この点に絞ってかなり長期間にわたり意見を交わしあった記憶があります。。。彼とはかなり頻繁に議論しました…彼は僕以上に「終末思想」の発動に警戒を感じておられたのです。。。

観点として「オウム問題」に絞った場合、おっしゃるとおり要素としては「それだけではない」事は確かです。

おそらく僕の不安を喚起するいくつかの問題についての帰結が、どうやらもはや「オウム真理教」だけではなかったのだということにいきついており、それは「過去」ではなく「未来」への作用であるが故に…この問題を探求する上では様々な研究が必要になってくるのです。なので、いわゆる切り口として『ヨハネの黙示録』を題材にあげました。
これに比べれば、ノストラダムスの大予言も、マヤの予言も時代的認知度と地域的認知度においてどうしても浅くなります。

まあ、今は「マヤ予言」の時期に突入していると言えますが

>引用はじめ
新約聖書の諸文書では、「終末が近い」ということが繰り返し唱えられますが、「では具体的にいつ?」と訊ねると、それに対する答えは明確には存在していません。有名なところでは、『マルコ福音書』13:32や『使徒行伝』1:7に記されているように、終末の時期を決定するのは父なる神の意志に委ねられており、キリストさえもその時期を知ることがないとされているのです。高橋さんが仰るように、これまでの歴史においては、いつまでも訪れない終末に痺れを切らし、「終末は○○年にやって来る!」と断言した人が沢山出てきましたが、聖書の記述によれば、その時点でもうそれらの人々は、神の意志に反しているということになるのですよね。すなわちキリスト教は、「終末が近い!」と言ってアクセルを踏みながら、「いつかは分からない!」と言ってブレーキを掛けるのです。
>引用終わり

まさにここが重要な点なのではないかと想っています。
僕はこのトリックの事を、過去に設定された『装置』だと表現しました。
確か僕は大澤真幸先生との対談で、これはもはや『装置』としか言いようがない…とつぶやいたのです。

起される事件が近代になればなるほど兵器開発の発展により悲惨なものになりますが、その現象をもって「近代の傾向」として大枠は取り損ねていないと想います。(しかし忘れてはならないことがあります。原因と結果の法則によれば、果実の洞察には原因の見極めが必要になります。どこまで深く遡るかについては先生と僕では違いが出ているようですが…)

そして、先生のこの分析と視点は、端的にこの終末観に潜んでいる「心理的葛藤」を表現し、そこに留まっており冷静なものです。
そして、終末思想が「キリスト教」の専売特許ではなく、…多くの宗教では単にその亜流に留まるでしょうが、ルーツの古い宗教や古来から存在している思想の中に、存在していることを知ると、この世界が幻のごとく儚いものであることを感じさせます。

 これは、既にロマン主義に陥っているのだ…と捉えられる傾向がありますが、そのように捉えられると哀しいものがあります。

終末と救済がセットになった物語がいくつか存在します。古くはゾロアスター教というのが出てきました。先生がおっしゃっているように、天使と天使の戦いがあそこには語られております。。。そしてどちらかが「光」でもう一方が「闇」とされています。

僕は以前オウムがゾロアスター教の思想も色濃いのではないか…と感じたのは、教祖の前世ビジョンの話と、集いあう信者についての前世ビジョンを聴いた時に感じたのです。すなわち信者同士の過去世の2分化がありました。

彼はこのように語りかけていました。
「前世から縁のある約された弟子達よ、集まりなさい」…と。
「私に付き従っていた弟子だけでなく、私に恨みを抱いていたであろうものも…歓迎する」

そして集いあう信者達は、あそこに出家しているもの達のなかでも「逆縁」と「親縁」に分かれており、そのことを信者同士が「秘かに」気づき、「秘かに」語り合うのです。
「逆縁」であることに霊的に気づいてしまったサマナは、複雑な想いで…いやむしろだからこそ、今生こそは…と信を強めていましたこのビジョンは阿修羅界での闘いをベースに語られていましたが、敵も味方も取り込み弟子にしたという彼の前世自伝は強烈に機能したのです。。。

 すなわち、説法会に行って、危険を察知し、もしくは反感を抱くものさえも、信者にしていたのです。

。。。このエピソードで一番有名な被告は新実被告です。
他の実行犯が、傷を伴いながら教祖から離れてゆくなか、頑なに教祖信仰を貫いている一人である彼は、自分の心の中では「彼とは刀で切りつけあうほどの仲だった…」と述べているのは注目に値すると想います。

先日、死刑宣告された遠藤死刑囚ですが、彼は教団で「イエスマン」であり、社会的にも「イエスマン」であるとも捉えられていた時期がありますが、彼の親しい信者仲間には、当時このように零していました。

「僕は、尊師のことが、恐くて恐くてたまらないんだ。。。」
恐怖を感じていた人ほど、逃げられないのです。

彼(教祖)の暗喩のメッセージはこうでした。
「やがて光の軍勢と闇の軍勢が戦うだろう、果たして君達はどちらに属すのだ…」

もはや宗教的脅迫としか言いようのない問いかけが「教祖」から「信者」に発せられていました。
そこで、教団の思想体系として、仏教でいう「ヒナヤーナ」「マハーヤーナ」「ヴァジラヤーナ」を順次説いていき、最後には「ヴァジラヤーナ」しか選択させない…というが現状だったと思います。

話がそれました…元に戻します。

>引用はじめ
カトリックにおいてもプロテスタントにおいても、大きな規模を持つ教会は、現世の人々をいかに統治するかに心を尽くし、終末論を抱く急進派が出てこないような抑制(弾圧を含む)を行ってきた、と言えると思います。しかし近代においては、この構図が崩れてしまう。一つには、教会に代わって国家が主権性を掌握し、市民に「信教の自由」を保障したため、極端な終末論を抱く人々を教会が制御できなくなったこと、そして二つには、経済的恐慌や大量破壊兵器の存在、環境破壊の問題など、「世界の破局」を思わせる数多くの要因が新たに登場したため、人々がそれに潜在的な恐怖を覚えるようになった、ということです
>引用終わり

おっしゃる視点は重要だと想います。現代の時代が抱える問題として背負うべき主体が、教会、国家、一個人という変化の上にあるという指摘にはハッとさせられました。
ただし、中世に教会が機能していた頃に、彼らが抑制してきた行いは、いきつくところ「異端裁判」になりました。
ここには、「裁く側」と「裁かれる側」の双方に、非常に解決しずらい難題がありました。
決して、教会が機能していた頃に、「死」や「信仰的生活」に対して、有効で理想的な解決が存在していたとは言えないはずです。

>引用はじめ
『オウム真理教の精神史』でも述べたように、私はオウムの終末論においては、特にこの二つ目の要素が大きな役割を果たしたのでは、と思います。近代社会に出現する終末論には、ある独特の性質が見られます。まずそれは、神の力ではなく、人間の力によって「終末」が引き起こされると考えられることです。神の力が超越的に人間界に介入するのではなく、オウムもそうであったように、戦争・環境破壊・経済破綻など、何らかの人間の行為によって「終末」が到来すると考えている。またそれゆえに、その基盤となる歴史観も、特にキリスト教や聖書に依拠しなければならないわけではありません。『ノストラダムスの大予言』、ヒンドゥー教の神話、マヤのカレンダーなど、いくらでも代替物があるわけです
>引用終わり

その通りだと想います。同感です。
ただし、単純化するために論じたわけではないので、その点は誤解だと想います。伝わらないのはもどかしいのですが…

<イエス本人が「神の国の到来」を待ち望んでいた>…ということは、世界宗教に発展したキリスト教が世界に「終末思想」を機能させる土台に一役買っている結果となっている…ということです。逆説的な結果を。その影響力は軽くはないでしょう。

長文、失礼致しました。
 

終末論とオウムの問題2

 投稿者:大田俊寛  投稿日:2011年11月23日(水)23時39分3秒
  高橋英利様

再度のご投稿ありがとうございます。こちらで分かる範囲で返答させていただきます。

まず、エイレナイオスとグノーシス主義の論争についてですが、エイレナイオスが『異端反駁』という書物で取り上げている論点は主に、「創造主と真の神は同一か」「キリストは受肉したか」「旧約聖書と新約聖書のあいだに一貫性はあるか」という三点であり、終末論はさして問題にされていません。エイレナイオスもグノーシス主義も実は、『ヨハネ黙示録』のことはほとんど取り上げておらず、私にもその明確な理由は分かりません。他の新約文書が、人類の過去と現在に関わるものであるのに対して、『ヨハネ黙示録』は「未来に関する幻視」という特殊な内容ですので、これについて積極的に論じようとする神学者は全般的にあまりいなかった、ということなのかもしれません。

『オウム真理教の精神史』でも参考文献に挙げていますが、終末論とオウムの関係について論じた書物に、越智道雄氏の『〈終末思想〉はなぜ生まれてくるのか──ハルマゲドンを待ち望む人々』があります。オウム事件を受けて緊急出版されたためか、あまり構成が練られていないところがあるのですが、参考になる書物だと思います。とはいえ、私が一読した限りでは、オウム全体を「キリスト教終末論」の観点のみから説明しようというのは、やはり無理があるという印象を受けました。私も『オウム真理教の精神史』の第四章でこの主題について論じていますが、それはあくまで、オウムを形成した多くの要素のなかの「一つ」であり、それのみが特別に決定的であったわけではない、と考えています。

>「終末を恐れる感覚」としてではなく「終末を待ち望む感覚」に変貌した姿が、その頃(1世紀~3世紀頃)から既に生じていたといえるのではないか?

イエス本人が「神の国の到来」を待ち望んでいたわけですから、「終末を待ち望む感覚」は、キリスト教の歴史を通して最初から存在していました。とはいえ、キリスト教の終末論には、ある「巧妙な仕掛け」が施されているのです。

新約聖書の諸文書では、「終末が近い」ということが繰り返し唱えられますが、「では具体的にいつ?」と訊ねると、それに対する答えは明確には存在していません。有名なところでは、『マルコ福音書』13:32や『使徒行伝』1:7に記されているように、終末の時期を決定するのは父なる神の意志に委ねられており、キリストさえもその時期を知ることがないとされているのです。高橋さんが仰るように、これまでの歴史においては、いつまでも訪れない終末に痺れを切らし、「終末は○○年にやって来る!」と断言した人が沢山出てきましたが、聖書の記述によれば、その時点でもうそれらの人々は、神の意志に反しているということになるのですよね。すなわちキリスト教は、「終末が近い!」と言ってアクセルを踏みながら、「いつかは分からない!」と言ってブレーキを掛けるのです。

カトリックにおいてもプロテスタントにおいても、大きな規模を持つ教会は、現世の人々をいかに統治するかに心を尽くし、終末論を抱く急進派が出てこないような抑制(弾圧を含む)を行ってきた、と言えると思います。しかし近代においては、この構図が崩れてしまう。一つには、教会に代わって国家が主権性を掌握し、市民に「信教の自由」を保障したため、極端な終末論を抱く人々を教会が制御できなくなったこと、そして二つには、経済的恐慌や大量破壊兵器の存在、環境破壊の問題など、「世界の破局」を思わせる数多くの要因が新たに登場したため、人々がそれに潜在的な恐怖を覚えるようになった、ということです。

『オウム真理教の精神史』でも述べたように、私はオウムの終末論においては、特にこの二つ目の要素が大きな役割を果たしたのでは、と思います。近代社会に出現する終末論には、ある独特の性質が見られます。まずそれは、神の力ではなく、人間の力によって「終末」が引き起こされると考えられることです。神の力が超越的に人間界に介入するのではなく、オウムもそうであったように、戦争・環境破壊・経済破綻など、何らかの人間の行為によって「終末」が到来すると考えている。またそれゆえに、その基盤となる歴史観も、特にキリスト教や聖書に依拠しなければならないわけではありません。『ノストラダムスの大予言』、ヒンドゥー教の神話、マヤのカレンダーなど、いくらでも代替物があるわけです。

ということで、説明が長くなりましたが、古代キリスト教の終末論がオウムの出現をすでに規定していたというのは、そういう点がなくはないものの、かなり事態を単純化してしまっているのではないかというのが、私の考えです。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

 

その影響について

 投稿者:高橋英利メール  投稿日:2011年11月22日(火)22時51分6秒
  >「終末は近い」という記述で溢れているため)。

この時期、キリスト教のどの派でも構わないのですが、終末がこない事にしびれをきらす一派は現れませんでしたか?
これも調べるのがそれなりに大変であり、先生の知識として既にご存知でしたら是非、ご指摘いただきたいと想います。
僕は、どこかの文献で見かけたことがあるのです。今は忘れてしまいましたが…(たしかナグ・ハマディの中のどこかだったかと)

僕の視点は以下のようなものです。

 「終末を恐れる感覚」としてではなく「終末を待ち望む感覚」に変貌した姿が、その頃(1世紀~3世紀頃)から既に生じていたといえるのではないか?と

 そうなると、それは「近代に属する問題」として括るほど、狭い時期の問題ではなくなってくるのです…。

そして、この新しく変異した終末観=「終末を待ち望む感覚」は、1000年、2000年という区切りのいい年代に「盛り上がってしまう」のではないかと、僕は感じています。それが千年王国の思想(※特に千年期前再臨説)を生み出しており、これは古来のなくなってしまった宗教神話の化石ではなく、実は「今も生き残っている思想」なのではないか…と僕は捉えています。
このような考えに至ったのは、いうまでもなく、僕の体験によるものですが、「鬼気迫る終末観」を身近に目にしてしまったからこそ感じてしまうものです。

 世界にとって、残されるている最後の「工程」は、何処の誰かはわからないが、後は引き金を引くだけ…の状態にまでお膳立てができてしまっているのではないか。

これが、僕が感じている終末観の側面の一つの像になります。

「まずキリストが空中に再臨し、クリスチャンを空中にひきあげ(携挙)、その後大きな困難が地上を襲う」
(患難時代と呼ばれる)。
              患難前携挙説

これとほぼ同じような思想がオウムで教祖が唱えていました。。
問題はここで、オウムだけではないことを発見してしまったことです。

次の youtube をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=lOWMRBwMvuw


これと同じ事をやろうとしていました。。。オウムは。
村井氏は、そのためにどのくらいの飛距離までレーザー光線が届かせることが可能であるか?
どのくらいの出力が必要になり、この装置を冷やすためにどのくらいの水冷施設を作らなければいけないのか?
といったことを調査するように言っていました。

そして、それは「オウム」以外の他の組織、他の国で、既に「実現」していたことを知りました。

これは終末思想を後押しするための単なる演出に過ぎないことは確かだと思われます。
しかし、その効果は、かなり大きいものとなると思われます。
 

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